平助は綾にも土産だと下げ緒をくれた。こちらは朱色である。 下げ緒は身分によって身につけて良い色が決まっているが、綾は元の身分が身分なので何を身につけても咎められることがない。 赤に近い色は、大名でないと許されないが、それすらも綾には可能だった。 ただし浪人はどこの藩にも属していないので、ある程度好き勝手な色を身につけている。 現に赤を纏う人間も、新選組の内部にはいた。 そういうところまでを考慮し、平助は朱色を買ってきたようだった。新選組の時も、姫の時もどちらでも朱色を身につけることが出来る。 小さな気遣いに綾は素直に礼を述べて、その場で南紀重国の下げ緒を換えた。 その後平助は隊士に呼ばれたので、綾は部屋から退出した。 廊下を歩けば、庭先の桜が風に揺れている。 ふと足を止め、綾は静かに華を見上げた。 西本願寺の屯所は以前の八木邸より遥かに広いが、そのせいか寂しい。 樹齢を重ねた立派な桜も、何だか侘びしく感じると目を伏せた。 「綾ちゃん」 そっと後ろから声を掛けられ、綾は振り返る。 沖田と斎藤が並んで近寄って来た。 斎藤の方はどうやら道場の帰りらしく、僅かに髪が湿っている。稽古の後水を浴びるので、その名残だろう。 「何していたの?ぼんやり突っ立って」 「いえ、ただ桜が見事だな、と思って」 「ああ、桜か。確かにこちらの桜は壬生よりも立派に感じる」 斎藤は生真面目に頷き、視線を桜に向けた。 一方沖田は呆れたように笑う。 「桜かぁ。僕はあんまり興味が無いかな。別に食べられる訳じゃないし」 「…あんたには情緒というものがないのか」 「情緒なんかなくても生きていけるからね。ま、こんなこと伊東さんに言ったら、顔顰めちゃうんだろうけど」 沖田は皮肉交じりに言う。沖田はあまり伊東のことが好きでないと、隠そうともしていなかった。 むしろそのせいで伊東派と諍いになれば、刀を抜く機会が出来ていいと豪語しているくらいなのだ。 綾は彼らしいと笑った後、それで沖田さんは、と切り出した。 「沖田さんは何をしていたんですか?斎藤さんは道場の帰りのようですが…」 「僕?ああ、誰かさんの句集に落書きしてあげたよ」 「…総司、その句集というのは、」 「はは、やだなぁ。落書きと言っても、それこそちゃんと情緒あるように訂正してあげただけだよ」 笑んだ沖田の表情に、土方の怒り顔が浮かんだ。 まだ本日は怒鳴り声が聴こえないので、気づいていないのだろう。 斎藤は呆れながら説教をしようとしたが、沖田はそれを軽く遮った。 「それで綾ちゃん、今度の将軍様の上洛の件、聞いてる?」 「あ、はい。京にいらっしゃるんですよね」 「その訳は?」 「え?」 「なんで京にいらっしゃるのか、知ってる?」 唐突に尋ねられ面を食らう。 綾はいいえ、と言いながら首を振った。 すると沖田は僅かに眉を寄せる。 「長州征伐、らしいよ」 声を格段落として囁かれた言葉に、綾はおろか斎藤までも驚いた。 禁門の変以降、長州は正式に幕府の敵と見なされた。それどころか帝の敵、朝敵とまでなってしまったのだ。 市井ではいずれ徳川による長州征伐が行われるだろうと噂されており、綾も耳にしていた。 だが実際現実となるとまた違う。 「では、戦の大将は…」 「将軍様自ら、らしいね」 「そうですか…」 目を伏せ、綾は感情を抑え込んだ。 いよいよ戦になるのだ。江戸の太平の世を打ち破る、大戦である。 将軍という身分でも、実際に戦を経験したのは二代秀忠までである。 これほどの規模の戦は実に、江戸幕府開いて以来であった。 その将に家茂は就任するというのだ。負荷は計り知れない。 元より人一倍優しく争いを好まぬ性格だというのに。綾は無意識のうちに、胸の前で手を強く握った。 そんな綾の頭を、沖田は軽く撫でた。 「大丈夫だよ、きっと。京ならば、僕らがいる」 「そうだ。俺達新選組がついている。案ずることはない」 沖田の言葉に斎藤も重ねて励ます。 心配してくれたのだと、綾は情けなくも嬉しく思った。 二人とも、どうやら一足先に家茂の出征を聞き、綾の元へ駆けつけてくれたらしいと悟ったのだ。 「ありがとうございます」 かすれた声で礼を言った綾の頭を、今度は斎藤が優しく撫でる。 通り過ぎて行く春風は桜の花弁を巻き上げ、綾の胸に渦巻く不安を静かに削って運んで行った。 続
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