翌朝、目覚めた明里は、綾と千鶴に詫びた。 まだ傷は癒えていないが、平常心は戻ったらしい。 遺体への面会を願い出た彼女に、土方は切腹の痕を見せたくないと山南が遺言したのだと説明し、断った。 遺体すら見ることは出来なかったが、明里はただ寂しそうに頷いて引き下がった。
午前中のうちに帰るという明里を、綾は門前まで見送りに出た。 「ホンマ、昨晩はえらいすまへんな。雪村はんにも申し訳ないことしおした」 「いえ、良いですよ。それよりも明里さん、」 大丈夫ですか、と問おうとして、綾は止めた。 大丈夫な訳はない。昨日の今日だ。まだ現実を受け入れられなくとも仕方ない。 明里は緩く微笑むと、静かに頷いた。 「もう取り乱したりはしません。まだ辛いどすが、前を向かなくては」 「明里さん…」 「山南さんがせっかく解放してくれたんや。これからを大事に生きてゆきます」 健気にそう言うと、明里は遠くを見るように目を細めた。 綾は何も言えなかった。 山南は本当は生きている。羅刹になって、生きている。 教えてあげたいのに、教えることは出来ない。新選組の最高機密であるし、何より山南が羅刹になった自身を明里に見せることを望んでいない。 俯いた綾に明里は優しい笑みを零し、では、と一礼して踵を返す。 その去っていく背を、綾は切ない気持ちで見送った。 「何しているの?」 声を掛けられ振り返ると、沖田が立っていた。 沖田は緩い笑みを浮かべ、腕を組んでいる。 もう一度明里の背を見る。随分小さくなっている。 堪らなくなって、綾は目を伏せた。 「武士の意地とは、時として残酷ですね」 「山南さんと明里さんのこと?」 「どうして、二人は結ばれなかったのでしょう。なんで…」 「山南さんは確かに明里さんを愛していたよ」 沖田は門の柱に寄りかかる。 その横顔を、綾は黙って見上げた。 「だけど同時に、山南さんは新選組の総長だ。新選組のことを誰にも負けないくらい考えていた」 「それで、あんな選択をしてしまった、と」 「男には譲れないものがある。時として、愛する人を傷つけても」 穏やかな声は、慈しみと強さを含んでいる。 心の底からの、芯のある声音だった。 「それが、山南さんの一分だったってことだよ」 山南の武士の一分で、決して譲れないもの。 腕を怪我して、参謀の登場により頭脳でも叶わなくなり、挙句愛する人を守れずに終わりそうになった。 そして自らが作った変若水を飲み、完成した羅刹と成れるかの実験を、自らで行う。 全ては新選組の為に。それが、山南の一分。 実際山南が変若水を飲んだことは、まだ変若水そのものが成功かどうかはともかく、十分伊東派への牽制になった。 山南は身を挺して、伊東に対して釘を刺したのだ。 新選組の結束は絶対なのだと。 「沖田さんも、変若水を飲みますか」 綾の問いかけに、沖田は微笑んだまま頷いた。 「それが僕の一分ならば」 柔らかい声音ながら、嘘偽りはない。 きっとこの人も、何の躊躇いもなく口にするのだろう。 綾は瞼を閉じた。 そして、自分も。 不意に涙が溢れそうになるのを、綾は必死で我慢する。 泣くことは恥だ。それに自分が泣くのはお門違いである。 肩を震わせ、唇を噛み締めた。 何一つ出来なかった。山南の心を救うことも、明里の小さな願いを聞き届けることも。 何と自分は無力なのか。 綾は情けなかった。悔しかった。悲しかった。 二人は、別れを選んでしまった。 懸命に涙を堪える綾に、沖田は仕方ないなと苦笑すると、腕を伸ばし、まるで幼子にするように頭を優しく撫でた。 「泣かないでよ、綾ちゃん」 「泣いてません」 「泣いてるよ」 「泣いてません!」 「心が悲鳴を上げている」 ハッと顔を上げた綾に、沖田は口元を緩める。 翡翠色の瞳は悲しげだった。 「誰のせいでもないよ」 「沖田さん…」 「誰も悪くない。山南さんも明里さんも、綾ちゃんも」 優しい言葉は胸に落ちる。 綾は唇を噛んで、再び通りに目を向けた。 もう明里の姿はどこにもなく、ただ風に乗った梅の香が、静かに頬を撫でて通り過ぎていった。 続
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