五月雨 | ナノ









「お前、ここで何してる」


呆然と立ち尽くした千鶴に、土方が声を掛ける。
綾は慌てて顔を上げた。
そうだ、千鶴はここにいていい人間ではない。顔から血の気が引く。
千鶴が新選組に軟禁されている訳は、たった一つ。秘密を守るため、だ。


そう思った瞬間綾は千鶴の腕を掴んだ。
驚く千鶴を余所に、引っ張るように走り出す。


「綾!」


後ろから土方の声が聴こえたが、それは無視した。
千鶴は山南を見てしまった。羅刹の姿の山南を、血を求める姿を目にしてしまった。
捕えた当初とは明らかに綾の心には違うものが生まれていた。
一年間千鶴と一緒に暮らしてきた。千鶴がどれほど優しい子か、もう知っている。
新選組に捕えられていることを恨まず、それどころか感謝していた。
綾は千鶴が大好きだ。だから絶対に死なせたくない。
千鶴に外出が許された頃、守ると言ったのは嘘ではない。
絶対に、守ってみせる。殺したりなどしない。


前川邸を抜け八木邸に入り、綾は一目散に自室を目指す。
千鶴も身の危険を察したのか、黙ってついてきていた。
八木邸の奥、幹部私室が並ぶ一角でも更に奥にある自室で止まり、襖を開け放つ。
千鶴の背を押して先に中に入れ、綾は振り返った。
誰も追ってきてはいないが、油断は出来ない。
直ぐに自分も部屋に入り、つっかえ棒で戸を開かなくした。


肩で息をする綾を、千鶴は心配そうに見る。
その視線に気づいて、綾は笑ってみせた。


「大丈夫だよ」
「綾さん…」
「大丈夫」


半ば自分に言い聞かせながら、策を練る。
とはいっても土方がどう出るか、だ。千鶴を助けるだろうか。
いや、土方は助けまいと綾は思った。
新選組のことを一番に考える男だ。新選組を守ろうとするだろう。
千鶴が他に口外するような性格でないと知っているだろうが、それでも危険は排除するはずだ。
命令が下れば、情に篤い原田や近藤はともかく、後は皆躊躇なく殺すだろう。
運が悪いことに、一番味方になってくれそうな平助はいない。
庇ってあげられるのは、自分しかいないのだ。


「綾さん」


千鶴の顔はすっかり青ざめている。
固く握った手が、恐怖のためか小刻みに震えていた。


「私は、殺されてしまうのですか」
「殺させやしないよ」
「けれど、そしたら綾さんが、」
「大丈夫、策はある」


綾は優しく微笑むと、部屋の隅にある文机に向かった。
紙を広げ、墨をすろうとして水がないことに気づく。
用意するためには一度外へ出ねばならない。人の気配はないが、斎藤や沖田は気配を消せる。恐らく土方も出来るだろう。
ふと目の端に飲みかけの茶が映った。
躊躇なくそれをひっくり返し、墨をすった。


筆に載せ、文を書く。千鶴の助命嘆願である。
一通は染、もう一通は容保に宛てたものだ。染は現在京の会津屋敷にて、侍女頭を務めている。
千鶴をそこで預かってもらえないか、という嘆願だった。
会津藩で預かれば、新選組は容易に手出しできない。また、会津藩が千鶴の助命を取り成してくれるだろう。
情けないが、会津に賭けるしかなかった。


二人に文を書き終え、裏には「蓮」と書く。綾の戒名、蓮尚院の略である。
自分が会津屋敷に向かう訳にはいかないので、小姓にでも頼まねばならない。
馬鹿正直に本名を書くことは出来ないし、そもそも高貴な身分の者は誰の目にもつくような場所に名を記すことはない。
綾は文を片手に立ちあがった。
夜は深いが、小姓たちはまだ起きているはずだ。多忙な染も床に就いておるまい。
何より千鶴の命が懸っているのだ。急用に他ならなかった。


「いい?他の誰が来ても、ここを開けてはいけないよ。誰に何を言われても駄目だよ」
「はい…」
「私が出たら直ぐにつっかえ棒をして、閉じこもっていてね。いいね」
「はい。あの、」
「うん?」


戸を開けようとした綾に、千鶴は恐る恐る声を掛けた。
恐怖の為か、依然身体は震えていた。


「有り難いですが、私を助けたりすると、綾さんは…」
「大丈夫だよ」


この期に及んでまで他人を案ずる千鶴に、綾は笑ってみせた。
本当に優しい子だ。だからこそ殺したくはない。
決意を胸に、綾は戸を開けた。


外に出て素早く後ろ手で戸を閉めると、言いつけどおりに千鶴が栓をする。
辺りを見渡すが、気配はない。真っ暗で視界は良くない。
目を凝らしながら、綾は小姓の元へと急いだ。


瞬間、鋭い殺気を感じて振り向きざまに抜刀する。咄嗟の反応だった。
背に立っていたのは斎藤である。
夜の闇に隠れて解らぬが、表情は険しい。


「何をしている」


低い声で斎藤は咎める。
綾は後ろに跳ねて間を取り、唇を噛んだ。


「千鶴を殺すつもりですか」
「副長がお決めになることだ。俺は知らぬ」


斎藤は淡々と言い放つが、冷静だからこそ恐ろしかった。
やはりこの人は千鶴を殺すだろう。土方が一言殺せと云えば、あっさり殺してしまう。
負けてはならない、と心を叱咤した。
負けた瞬間、千鶴の命の灯は消えてしまうのだ。


「綾」


斎藤の背後から現れたのは、土方だった。相変わらず眉間に皺を寄せている。
綾は既に刀は納めたが、柄に触れたままだ。
もう片方に握った文を、強く掴んだ。


土方は綾の手にある文を一瞥すると、目を細めて見据えた。


「その文はなんだ」


尋ねられ、綾は息を呑む。
それでも彼女は顔を顰めて、文を前に突き出した。


「会津屋敷への嘆願書です」
「嘆願?」
「千鶴の助命嘆願です。千鶴を会津で雇うよう、願い出ています」
「それは、お染殿にか」
「染と、中将様に。蓮尚院綾姫からの嘆願です」


土方は予想は出来ていたのか、特別驚いた様子はなかった。
二人は睨みあうように、互いを見つめる。逸らすことは出来なかった。


どれほどそうしていただろうか。
先に視線を外したのは、土方だった。


「それを寄越せ」
「嫌、です」
「アイツは殺さねぇから、寄越せ」
「…本当に、殺さないですね?」
「武士に二言はねぇ。何なら誓約書を書いてもいいぜ」


言いきった土方を見て、ようやく綾は息をついた。
張り詰めた空気が解ける。
綾は刀の柄から手を離すと、土方の目前まで歩み寄った。


「お前に免じて、アイツの命は助ける。安心しろ」
「ありがとうございます」


握りすぎて皺の寄った文を、土方は受け取った。裏面の署名まで見て苦笑し、懐に仕舞う。
千鶴は一晩綾が責任を持って預かるように言うと、斎藤と共に去っていった。






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