五月雨 | ナノ








山南敬助の切腹は、夜に行われた。


面会を終え呆然と座り込んだ明里を、綾は屯所内の客間に寝かせ、千鶴に看病を頼んだ。
青白い明里の寝顔に、掛ける言葉が見つからない。
目覚めた時にどうすればいいのだろうか。
立ち尽くす綾に、千鶴は自分が何とかするからと言ってくれた。


前川邸の広間に、平助以外の近藤派が集まっている。
浅葱色の装束を身にまとった山南と、後ろには沖田が同色の装束で立っている。
形式は切腹ということで、介錯として沖田が指名された。介添え人は永倉である。
沖田はもしもの時の為に、清めた打刀を手にしていた。その表情は硬いが、冷静さを保っている。


三方に載せられたのは、短刀ではなく変若水だ。
杯に注がれた朱色の水は、行燈の光の下ゆらゆら揺らめいている。


綾は襖側の下座で、処罰の時を待った。
出席しなくとも良いという言葉を押し切って、この時に臨んだ。
誰も何も言わない。沈黙が部屋中を満たしていた。


「山南さん、何か言うことはあるか」


土方が問いかける。冷静さを纏った顔の中に、僅かに悲痛が浮かんでいた。
山南は落ち着いて静かに頷いた。


「この度は寛大な処罰、大変有り難く存じます。私の研究が、今後の新選組のお役に立てますよう、願っております」


そこには覚悟をした者の瞳があった。
不意に綾は、この場に平助がいなくて良かったと思った。
山南と同門で懐いていた平助がいれば、平常心を保てなかっただろう。
冷静で一線引いたところがある沖田とは違い、平助は正直に全ての感情を出す。
どちらの方が辛いのかはさておき。


「沖田くん、頼みました」
「任せて下さい。立派に斬ってあげますよ」


返事をした沖田は、随分平静に戻っている。いつも通りのふてぶてしい口調だ。
それに軽く微笑み、その後表情を引き締めると、山南は変若水を取って三方を後ろに回す。
辺りに張り詰めた空気が巡る。
綾は膝の上で固く拳を握った。


山南は杯を一瞥し、口元に運んで一気に煽った。


小さな音を立てて杯が敷物の上に転がる。零れた水滴が、浅葱色の敷物に赤の斑点を残した。


「うううぐぐぐ、」


低い獣のような呻きを上げ、山南は腹を抱えて蹲った。
綾は目を疑った。
みるみるうちに山南の髪が白く染まり、瞳は燃えるような赤に変わる。


これが、羅刹。
綾は口を半開きにしたまま、凝視するしかなかった。


その時、突然廊下側から足音が聴こえてきた。走る音が二つ、追う者と追われる者だ。
切腹が執り行われる部屋には、平隊士達は立ち入りを禁じられている。
伊東も土方が説得し、一派もろとも辞退させたというのに。


「明里さん!いけません、明里さん!」


近づいてきた足音の一つ、千鶴が甲高く叫ぶ。
綾の顔から血の気が引いた。明里と、千鶴。来てはならない。


慌てて部屋を出ると、明里が廊下の向こうからやって来た。
髪は乱れ、目は虚ろだ。あの美しく着飾った天神の明里はなかった。


「山南さんを、山南さんと会わせて下さい。山南さんと、」


混乱した声音で、ただ山南の名を呼ぶ。追いついた千鶴が、明里の腕を掴んだ。
綾は両手を広げる。今はともあれ、部屋の中に入れる訳にはいかない。
羅刹は新選組の最高機密である。明里に知られてはならない。知られれば彼女の命が危ない。


「山南さん!山南さん!」


狂ったように大声を上げる明里を、千鶴と二人で取り押さえる。
それでも明里は渾身の力で暴れ、小柄な千鶴はふっ飛ばされ庭先に転がった。


「どけ、綾!」


後ろからの声に反応して、明里から身を離す。
するといつの間にか背後に迫っていた斎藤が刀を抜き、素早く峰打ちした。
明里は一瞬目を見開くと、その場に崩れ落ちる。咄嗟に明里を綾は抱えた。
斎藤と、騒ぎを駆け付けた山崎が明里を受け取る。山崎が彼女を抱え、元いた部屋まで戻っていった。


綾は庭先に降り、座り込んでいる千鶴に近寄る。
千鶴は腕を抑えていた。庭先に転がったために、泥まみれである。


「大丈夫?怪我は?」
「あ、いえ、大丈夫です」


声を掛けられ、千鶴は腕を隠すように後ろに回した。
その行動に顔を顰めるが、ふと驚いて千鶴の右手を掴んだ。
右手に僅かな血がついている。とすると隠した左腕に怪我をしたのだ。


「怪我をしているんじゃ、」
「いえ!かすり傷です!大したものじゃありませんので!」


腕を伸ばしかけた綾を、千鶴が慌てて制止した。
あまりの剣幕に気圧され、腕を下す。
驚くほど千鶴は必死に拒絶していた。


訳を問おうとした綾だったが、それは叶わなかった。


部屋の向こうで大きな物音がした。
訝しげに振り返ったその眼に、信じられないものが映る。


「山南、さん…?」


隣で呟いたのは千鶴だ。大きな瞳が、これ以上ない程開かれている。


山南は部屋を飛び出し、ぐるりと辺りを見渡した後、二人を見据えた。
舌舐めずりをしている。
いつもの穏やかで上品な彼ではなかった。


「血です、血が、血が欲しい。血が」


うわ言のようにそう言うと、山南は勢いをつけて庭先に飛び降りた。
瞳は千鶴を見据えている。
危ない。
直感的に思った綾は千鶴の前に入りこむ。そして刀を構えた。


しかし刀は震える。目の前にいるのは山南。相手は、山南。
変若水を飲んで羅刹になっていようとも、山南だ。いくら最近は辛らつであったとはいえ、山南は仲間である。とてもじゃないが、斬れるとは思えない。だけど斬らなければならない。
震える手を綾は叱り、八双に構える。


「血です、血を」


山南は正気ではなかった。
ただ血を求める、化け物になっていた。


斬らねば。襲ってくるようならば、斬らねばならない。
綾は刀を強く握った。


だが、前触れもなく、目の前の山南が崩れ落ちた。
山南の背後で、沖田が刀を振り下ろしていた。


「斬ってあげましたよ、山南さん」


倒れた山南を、原田と永倉が抱える。
沖田は呟いた後、懐紙で刀を拭って仕舞う。
羅刹になった山南は怪我はすぐに治ったが、疲れが出たらしく眠ってしまった。


綾は息をつくと、そのままその場に座り込んだ。





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