明里は必死に格子を叩いた。 声が出ない、まだ頭は混乱している。それでも彼女は叩き続けた。 とにかく山南の顔が見たかった。切腹するなんて、死んでしまうなんて信じられなかった。 格子の向こうで微かな物音の後、ゆっくりと障子が開く。 明里は振り上げた拳を下ろすことも忘れ、ただ凝視した。 障子の向こうにいたのは想いの人。間違いなく明里の、愛する人だった。 「お里?」 山南も驚いて目を見開く。明里は一度も屯所に寄ったことがなかったし、そもそも山南の切腹など知る由もないというのに。 誰かお節介な者が知らせたのかと、山南は眉を下げる。 格子の外にいる明里に、静かに微笑みかけた。 「どうしましたか。あなたがこんなところにいるとは、珍しいですね」 「山南さん…!」 明里は格子に寄ると、隙間から差しだされた手に触れる。 大好きな優しい手のひらだ。明里はそれを自分の頬に当てた。 こんなにも温かいというのに、明日には熱を失って冷たくなってしまうのだろうか。明里は身震いをした。急に実感が湧いた。 もう、こうして自分の頬に触れることも、なくなってしまうのだ。 「なぜ、山南さんが死ななくてはいけないんですか。いつも新選組のことを考えてきたのに、なんで」 「お里…」 「どうして…」 明里の瞳から涙が溢れる。 熱い水滴は頬を辿り、山南の手の甲に落ちていった。 山南は眉を顰め、それから緩い笑みを浮かべたまま、明里の涙を指で拭う。 それでも涙は止まる気配はなかった。 格子の向こうの山南は、浅葱の装束に裃、袴を身につけている。 切腹は免れないのだろうか。きっと決行されてしまうのだ。 自分を置いて、山南は逝ってしまう。兄のように、散ってしまうのだ。 自分を、残して。 胸がいっぱいで話すことも出来ない明里に、山南は優しい眼差しを向けた。 十以上離れた恋人は、明るくて穏やかで陽だまりのようだった。傷を癒してくれた。 だからこそ彼女一人守れない自分に、腹が立った。 山南は少し赤くなった明里の瞳に、もう一度笑みを落とす。 全て愛しかったこそ、だった。 「箪笥の奥の、私の浴衣にお金が包まれています。決して多くはありませんが、それを遣って生活なさい。残りの給金も全てあなたの手に渡るようにしていますから、贅沢しなければ島原に戻ることもありませんよ」 「山南、さん…」 「私があなたにしてあげられることは、もうこれだけです。本当にすみません」 「そんなこと、」 「あなたは私に多くを与えてくれたというのに」 首を傾げ、山南は眼鏡の奥の瞳を、眩しいものを見るように細めた。 「幸せに、暮らして下さい」 「山南さん!あなたがいないなんて、」 「どうか、お元気で」 山南は最後にもう一度微笑むと、そっと明里の頬から手を離す。 驚いた明里の大きな瞳を見て、そして障子を閉じた。 「山南さん!」 明里は格子を叩く。何度も名前を呼びながら、何度も何度も格子を叩く。 嫌だった。もう会えないなんて、山南が死んでしまうなんて嫌だった。 贅沢なんかしなくていい。二人、幸せに暮らしていければ、それでいい。 ささやかな願いだった。だけど優しい夢だった。 「山南さん!」 何度も名前を呼ぶ明里の目前で、二度と障子が開くことはなかった。
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