第二十章 一分(いちぶん)
元治二年二月二十三日。 捜索に行っていた沖田が、山南と共に戻って来た。 山南が連れ添っていることで、近藤一派は皆、衝撃を受けていた。 誰もが山南は戻って来ないのだと思っていたし、そうであることを望んでいた。 戻ればどうなるのか、敏い山南に解らぬはずがない。 直ぐに山南は、近藤と土方に呼ばれた。部屋には後は沖田が隅に控えている。その表情はいつもより険しい。 土方は眉間に深い皺を寄せ、近藤に至っては真っ青になっていたが、張本人である山南だけはいつも通りの穏やかな表情を浮かべている。 長い沈黙の後、土方は頭に手を当てた。 「なぜ、戻って来た」 喉の奥から無理矢理絞り出したような声音だった。 純粋な本音だった。何故、なぜ逃げてくれなかったのか。 既に沖田の報告は聞いている。自分から声を掛けてきたのだという。 何も言わないが、沖田のことだ。構わず逃げるよう進言しただろう。 それでも、山南は戻って来てしまった。 山南はやんわり微笑むと、静かに瞬きを繰り返した。 「ここが私の居場所ですから」 「しかし、山南くん。脱走しておいて戻れば、」 「解っています。始末はつけるつもりです」 思わず口走った近藤を遮り、山南は真っすぐ二人を見据える。 その言葉に、後の三人は驚かなかったが、表情はますます曇った。 「始末、の意味は解っているのか」 「はい、無論です。それで近藤さん、土方くん。折り入って相談が」 山南は袂に手を滑らせる。そして中から小瓶を取り出した。 近藤と土方が瞠目し、凝視する。その小瓶の中には禍々しい朱色の液体。いわずもがな、変若水であった。 「私は、羅刹になる道を選びます」 「…羅刹、だと」 「はい。切腹でなく、羅刹を選ばせてくれませんか」 「正気か、アンタ」 「正気ですよ」 驚く土方と対照的に、山南はどこまでもいつも通りだった。 変若水は既に失敗だと思われていた。効力がありすぎて、人外の力を手に入れる代わりに道徳を無くす。とてもじゃないが、扱いきれない。 その変若水を山南は使い物になるよう研究を重ねてきた。それは皆知る所ではあった。 だからこそ羅刹になるという山南のことが信じられなかった。彼らの末路は、山南が一番知っているというのに。 山南は小瓶を正面に置くと、一度だけ深く頷いた。 「あなた達が言いたいことは解ります。されど、羅刹にならせていただきたいのです」 「どうしてなんだ、山南くん」 「まだ新選組の役に立ちたい。それではいけませんか」 「それなら、なんで脱走なんかしたんだ」 近藤の悲痛な問いかけに、山南は軽く微笑んだ。 瞳に僅かな悲しみが浮かんでいる。 「私の腕は既に役立たず。そして私の頭脳も、もう必要ない。そう考えた先に行きついたのが、これだったのです」 近藤も、土方でさえも言葉を失った。 勿論二人とも、山南のことを役立たずなど思ったことはない。そんなこと考えてすらいなかった。 だが、当の本人である山南自身は違った。ずっと思い悩んでいたのだ。果ては脱走を企てるほど。 それに、と土方は思う。それに、山南は本気で逃げるつもりはなかった。逃げるのであれば、沖田に声を掛けたりしない。恐らくこうなることを見越していた。 「山南さん、アンタ…」 「この変若水は、完成品です。私が考えつく限りの全ての改良を施しました。ですが、まだ誰もこれを飲んでいないので、本当に完成なのか解りません」 「…だから、アンタが飲むっていうのか」 「私はこのままいても、ただのお荷物です」 「そんなこと!」 「君達が良くても、私は嫌なんですよ」 山南は少し顔を顰め、目を細めた。 「誰一人守ることすら出来ない厄介者など、もう嫌なんです。役立たずでいることは耐えられません。私も武士です。どうか、願いを聞き届けて下さい」 強く、胸を抉るような主張だった。痛々しさに、返す言葉がない。 山南の心の闇は、想像以上に深かった。 あくまで頑なな山南は、既に心を決めている。動く気はない。 元より脱走が知れてしまった今、何らかの処分を下さなくてはならない。切腹か、羅刹か。 それなら羅刹になってでも生きて貰う方がマシだと、土方はやりきれない想いで、決断した。
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