その次の次、山南が明里の元から屯所に戻った翌日のことだった。 早朝の空気を壊す、慌ただしい音で一日は始まった。 「大変だ!」 大声を上げて広間に駆けこんできたのは、井上だった。 既に皆、朝食を摂り終え、千鶴が茶を配っているところだ。 原田と世間話をしていた綾は、尋常でない井上の様子に顔を顰める。 井上は穏やかであまり感情を表に出さぬ男だ。その井上が騒いでいる。 しかも井上は、中々朝食を摂りに来ない山南を呼びに行った。 嫌な予感がしたのは綾だけでなく、土方は直ぐに、どうしたんですかと問いかけた。 「これが、山南さんの部屋に…!」 「山南さん?」 井上が差しだしたのは一通の書状であった。 土方はそれを受け取ると、眉間に皺を寄せたまま開いた。 みるみるうちにその表情が険しくなる。皆、黙ったまま土方の動向を見守った。 土方は読み終えたそれを近藤に渡す。 近藤も読み、血相を変えた。 「なんだと…!」 「どうしたんですか?」 問いかけたのは沖田だ。固い声音である。ただならぬ様子に、皆息を潜める。 近藤は口元を動かすが言葉に出来ない。代わりに土方が、口を開いた。 「山南さんが、脱走した」 「……は?」 「江戸に帰る、だと」 話している土方自身、まだ信じられないような声音だった。 山南が江戸に帰った。俄かには信じがたいことだ。 なんせ新選組局中法度には『局ヲ脱スルヲ不許』というものがある。当然、山南も知っているはずである。 破れば切腹、という鬼の法度は、多くの羅刹を生み出すのに貢献した。 「な、なぁ、嘘だろ。なんかの冗談だろ」 永倉が尋ねると、土方は首を左右に振った。 そして永倉に、山南の書状を渡す。しかしそれに目を通さず、永倉は訴えた。 「どうせさ、また島原にいるんじゃねぇか?ほら、明里、だっけ。あの天神のところにさ」 「こんな書状を残して、か?お前ならまだしも、山南さんが」 「山南さんだって、嘘つきたい時があるかもしれねぇだろ」 苦しい話だ。無論永倉自身、そんな訳ないと解っている。 解っているが、信じたくなどない。それは誰もが同じだった。 重い沈黙が部屋中を覆う。皆、何も言えなかった。 局を脱することが何を意味するのか、山南は知らぬはずがない。なんせ起草の段階に彼は関わっているのだから。 何がそこまで彼を追い詰めたのか。不意に綾は胸を抑えた。 思い出したのは一昨日の、捕物の際のことである。山南の絶望を彼女は耳にしていた。 「どうするんだよ」 沈黙を破ったのは、原田の呟きだった。 土方はおもむろに顔を上げ、一同を見渡した。 「山南さんを連れ戻す」 その宣言に、綾は瞠目した。連れ戻す、とは。行きつく先は一つ、切腹である。 山南は試衛館以来の有志であり、新選組の黎明期から関わった幹部中の幹部だ。その人を、連れ戻すのか。 想いは皆同じだったらしく、永倉は音を立てて立ちあがった。 「山南さんを殺すのかよ!」 「殺すかどうかは未定だ。しかしとりあえずは連れ戻さなきゃなんねぇだろ」 「今なら俺達しか知らねぇ!見逃すことも出来るじゃねぇか!」 激昂した永倉の怒鳴り声に、土方は眉ひとつ動かすことはない。 既にそこにはいつもの鬼と呼ばれた、新選組の副長がいた。 「直ぐに捜索を出す」 「トシ、」 「これはケジメだ。誰であろうと法度を破った者を、放っておく訳にはいかねぇ」 近藤の声すら遮って、土方は冷たく言い放った。 強い声音に気圧され、永倉は再び座る。皆は土方を凝視した。 「捜索は、総司。お前だ」 「……は?」 「お前が山南さんを探し出せ。馬に乗って行け」 唐突に指名された沖田が目を見開いた。 それはあまりにも残酷な使命だ。なんせ、捜索する者が山南を連れ戻さねばならない。いくら命令といえど、嫌な役割である。 しかも沖田に任せるとは。綾は呆然とした。沖田は山南を兄のように慕っている。山南が怪我をして落ち込んだ際、沖田は島原に連れだしたりと気を遣っていた。 平助が江戸にいる今、一番山南と親しいのは沖田といっても過言ではない。その沖田を、捜索係に命じるというのか。 「土方さん!」 「…なんだ」 思わず綾は声を上げる。一斉に視線が集まるが、そんなことには構っていられなかった。 「私を、捜索に命じて下さい。沖田さんではなく、私を!」 勿論綾は、山南を連れ戻したい訳ではない。切腹して欲しい訳なんかなかった。 それでも沖田に連れ戻しに行かせるのは、あまりにも残酷だと思った。 いくら普段反抗していても、隊務となれば行かねばならない。山南が拒否するならば、斬り捨てることも必要になるかも知れない。 そんなことを沖田にさせられるはずがなかった。 土方は深い紫色の瞳を、真っすぐ綾に向ける。負けじと綾も見つめ返した。 半ば睨みあうような二人に、誰も口を挟めない。 しかし、一人だけ沈黙を破った男がいた。 「僕が、行きますよ」 静かな声に、綾は息を呑んだ。 沖田は揺るぎない目をしている。そこには迷いなど見当たらなかった。 「山南さんを連れ戻します」 その強い口調に、もう何も言えない。 愕然とした綾を尻目に、土方は一度だけ深く頷いた。 「頼んだぞ、総司」 「すまん、頼む」 「はい、任せて下さい」 近藤と土方から言葉を掛けられ、沖田は立ちあがる。 そのまま廊下に出て、準備をするため部屋に戻ってしまった。
[←] [→] [栞をはさむ]
back
|