午後、斎藤と共に綾は島原に向かった。 土方の絶大なる信頼を受ける斎藤は、監察のような仕事も引き受けている。 本日は島原に潜入することになったが、何分不慣れなので綾に同行を頼んだとのことだ。 斎藤も一時、綾が沖田と共に島原に通っていたのを知っている。それで土方にも話を通したとのことだ。 隊務の為ならばと綾は直ぐに君菊に文を出し、不逞浪士と見られる浪士の隣の部屋に潜伏した。部屋には予め人払いを頼んだ。 賑わっている隣室とは対照的に、綾と斎藤は黙って茶を啜っていた。 流石に浪士の声は所々にしか聴こえないが、斎藤は断片的な単語から推測しているらしい。 集中力を切らしてはいけないからと、綾は部屋の隅で刀の手入れをしていた。 暫くの後目を閉じて聞き耳を立てていた斎藤だが、不意に視線を襖に這わす。 襖が開いて顔を覗かせたのは、忍装束の山崎だった。 「斎藤組長、これを」 差しだされた文を、斎藤が急いで開き見る。俄かに険しくなっていく表情を、綾は固唾を呑んで見守った。 手早く読み終えた斎藤は、山崎に労いの言葉を掛けて立ちあがった。 「綾、隣に入る」 「斬り合いですか?」 「大人しくしなければそうなる」 決して断言はしなかったが、恐らく斬り合いになるだろう。屯所への連行を、浪士達が易々受け入れるはずはない。 口元を引き締め綾も刀を取ると、斎藤の後ろに続いた。 果たして斬り合いは予想通りに始まった。 屯所への連行を願う斎藤の言葉に、浪士たちは一斉に刀を抜く。 刀の柄に軽く手を添えていた綾は、向かってきた浪士に居合を繰り出した。 浪士は十数人、対してこちらは斎藤と綾の二人だけ。 己を有利と思ったか、浪士たちは喜色を浮かべている。 しかし直ぐに、大して利があった訳ではないと悟ったらしい。 斎藤は表情一つ変えずに浪士を次々と薙ぎ倒している。事情を聴かねばならないので、全て峰打ちである。確実に失神させねばならないので相手より遥か上手にいなければならない。 器用に淡々と峰打ちをする斎藤に、浪士たちは恐れを為した。 綾も斎藤程でないにしろ腕は立つ。居合で牽制した後、柄を使って浪士の腹を打ち込んだ。 いつの間にか二人は背中合わせに戦っていた。 その事実に気付き、綾は驚くと共に嬉しい気持ちで満たされる。 背中を預けるというのは、戦闘において最大の信頼を意味する。 綾が斎藤を信頼するのは納得だ。斎藤は隊内でも一、二を争うとされる剣豪である。 だが斎藤が綾を信頼するかどうかは、微妙なところであった。 腕は確かに立つが、斎藤より格下。故に斎藤の心持一つなのだ。 大方片付き、残すところ後は斎藤が現在向き合っている者だけ。 そう思って息を抜いた綾の視界を、黒い物体が横切った。 驚いた瞳に映ったのは、先ほど綾が峰打ちした浪士。どうやら入れが浅かったらしく、逃げ出してしまった。 顔面蒼白になった綾は慌てて浪士を追う。 「…綾っ」 咎める声が後ろから聴こえたが、今は何より浪士だ。 浪士は細長い廊下を素早く駆け、すれ違う遊女の肩にぶつかっても構わずにいる。 軽い悲鳴があちらこちらから上がる。 綾は謝りながらも、浪士から目を離さずにいた。 店の外に出ると、浪士はそのまま裏道へと入った。どうやら賑やかな界隈を避けたらしい。 以前は昼間に来たので寂しいところという感想しかなかったが、宵の頃に入った今ではちらほらと人影も見える。 薄明かりが灯った橋は幻想的で趣があり、柳の下で客と遊女が語り合っている。 浪士は一組の恋人達にぶつかり、よろめいた。 絶好の機会と綾は間を詰める。 己の不利を知った浪士は、ぐっ、と眉間に皺を寄せた。 その時、雲が晴れて、月が目の前の恋人達を照らす。 視界が開け、浪士と恋人達の顔が明確に解った。 綾は驚いて息を呑んだ。 「山南さんっ」 恋人達はよりによって、山南と明里だった。 思わず叫んだ綾の声で、二人が知り合いだと察した浪士は、事もあろうか明里に向かって斬りつける。それを山南は明里の腕を強く引いて避けた。 しかし浪士の方も素早く、第二段を繰り出す。 咄嗟に山南は抜刀して構える、が、左腕のことは失念していたらしく、まともに構えられない。 浪士は口元に笑みを浮かべ、二人に刀を振り下ろした。 甲高い金属音が辺りに響き渡る。 綾は山南と明里の間に身を滑り込ませ、浪士の刀を受け止めていた。 「女性に刀を向けるとは、武士の風上におけないね」 綾は怒気を混じらせて皮肉を言った。 事もあろうか明里に斬りかかったことに、怒りを感じていた。 刀と刀で争うのは、武士同士であるべきだ。決して、非力な者を狙うべきではない。 このような不逞の輩が、殊更綾は嫌いだった。 刀の峰を滑り込ませ、正確に浪士の腹を打つ。 今度こそ強力な突きが入ったらしく、浪士は鈍い呻きを上げ、そのまま倒れた。 「綾っ」 ちょうど駆けよってきた斎藤は、その場に山南達がいるのに驚いた様子だったが、一緒に引きつれてきた山崎に、倒れている浪士の始末を指示し始めた。 間に合ってよかった。 綾は胸を撫で下ろした。明里に刃を向けた時は、本当に肝が冷えたものである。 お怪我はありませんか、と二人に尋ねようとして振り返ったが、言葉は出なかった。 山南は呆然と取り落とした刀と、自身の左手を眺めている。 そして何かを諦めたように、自嘲の笑みを浮かべた。 「新選組の総長ともあろう者が、好いた女一人、守れないとは…」 酷く、悲しみが籠った呟きだった。 それがあまりにも胸に迫って、綾はただ山南を見つめることしか出来なかった。
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