蕎麦を食べて店を出ると、近藤はにこやかに笑った。
「お付き合い下さってありがとうございました」 「いえ、こちらこそ」
綾も微笑み返す。 あの後近藤とは他愛もない話をした。 主に壬生浪士組のことばかりだ。 会津の内部事情を問われると思っていた綾にとって、良い方に意外だった。 綾はこの一刻にも満たない時の中で、すっかり近藤の人柄に魅せられていた。
「雪之丞殿はこれからいかがしますか」 「藩邸に帰ります」 「そうですか」
少し残念そうな顔で近藤は頷いた。 近藤も松平雪之丞が気に入ったからだ。 自分のところの最年少幹部より更に年若いのに、礼儀正しく利発な青年。 剣術に通じているようで、田宮流の居合いの話などは一剣豪として興味深いものだった。 元より会津藩に悪い印象はなかったから、ますます好ましく感じた。 もっとも近藤は、目の前の青年が姫君であるなど夢にも思わなかった。
「雪之丞殿」 「はい」 「年長者の戯れ言だと思い、軽く聞いて下され」 「、はい」
なんだろうと綾は首を捻る。 近藤は笑みを浮かべたまま、そっと目を細めた。
「苦しい時には考えすぎないことです。考えて考えて答えが出ないこともある」 「はい」 「だからそういう時は沢山自分を甘やかしても良い。旨いものを食べ、少し休みなさい」
ハッ、と綾は目を見開いた。 近藤の真意を察したのだ。 身内を見守るような優しい眼差しで、近藤は頷いた。
「今悩んでいることも数年経てばきっと笑い飛ばせます。何事も思い詰めぬことです」 「はい」 「自愛なされ」
そう言って近藤は微笑んだ。 近藤は綾が泣いていたのを見て、元気づけるために蕎麦屋に連れてきてくれたのだ。 初対面の人間にここまで心を砕くとは。 綾の胸うちに温かいものが広がる。 このような優しさを受けたことはなかった。
「近藤殿」 「はい」 「旨いうどん屋を知っています。味付けは京風なのですが美味です。今度一緒に行きませんか」 「勿論」
綾の問いに即答すると、近藤は豪快に笑った。 そして用があるのだと、壬生の方面に去っていった。
あのような人物がいるのだ。 綾の胸は熱くなる。 もっと、知りたい。
それから近藤が会津藩邸に訪れる度、綾は近藤と会った。 話せば話すほど、近藤は魅力的な男だった。 志高く忠義に溢れ、それでいて優しい。
天性の人柄だ。 綾はそう思った。
そして近藤と出会いひと月の後、決意したのである。 自分も壬生浪士組に入り、近藤の役に立ちたい。
運命が変わった瞬間だった。
続
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