着替えを済ませ部屋を出ると、ちょうど裏庭で洗濯をしている千鶴がいた。 籠いっぱいの洗濯物を干そうとしている所のようだ。 綾は軽く微笑むと、草履を履いた。 「千鶴」 「あ、綾さん」 千鶴は羽織を一着手にしたまま振り返る。 柔らかな空気に、綾は心を和ませた。 伊東派の加盟以来、屯所内の空気は僅かに、だけど確実に変貌を遂げている。 表立っては仲良くしていても、近藤派と伊東派の間には見えない壁があった。 殺伐とした雰囲気の中、争いに関係ない優しい少女に、皆は気づかぬうちに癒されていた。 「手伝うよ」 「えっ、でも、」 「夕食の当番で夜の巡察だから、午前中は空いているんだよ。だから暇つぶし」 戸惑って遠慮する千鶴の頭を、綾は軽く叩くと屈んで洗ったばかりの羽織を手にした。 自分に気遣わせない綾の言葉に、千鶴も自然と笑顔になって頷いた。 濡れた羽織は寒空と井戸の冷えた水に晒されて、随分冷たくなっている。 皺を伸ばして干しながら、時折自分の手のひらに息を吹きかけた。 冬の家事は辛い。特に洗濯や炊事は凍える。 当番ですら憂鬱なのに、まして千鶴は毎日洗濯と拭き掃除を任されている。 愚痴一つ言わずこなしているが、辛いに違いない。 綾は不意に自分の給金のことを思い出した。 明里が親友の妹と解って以来、山南は一人で島原に出かけるようになった。 近頃では屯所内の自室に籠っているか、島原にいるかのどちらかである。 これには皆は意外だった。 真面目な山南が島原の遊女に入れ込むなど、誰も予想していなかった。 無論唯一訳を知っている綾も、胸の内に秘めていたから周りは知りようがない。 ただ遊女に本気になっているのだろうと、誰もが思った。 お陰で綾は、前までのように給金を貯め込むようになった。 酒は自主的に飲むほど好きな訳ではないし、かといってこれという趣味がある訳ではない。 現在親友の平助は江戸にいる為に、甘味処すら行きはしない。 しかも暇さえあれば剣術の稽古をしているのだから、金が貯まるのは当たり前だった。 綾は自分の手のひらをしげしげと眺めた。 水仕事や木刀を握っている為か、見事なまでに荒れている。 姫様と呼ばれていた頃が嘘のような手だ。 自分ですらこれなのだから、常に水に触れている千鶴はもっと酷いだろう。 以前染に聞いた手荒れ薬のことを思い出した。紫雲膏という漢方薬らしい。 多少値が張る物だが、今は余裕がある。 それを千鶴に買ってあげようと思いながら、綾は手を伸ばした。 「えっ、あ、綾さん!」 突然手を取られた千鶴は、驚いて声を上げる。 しかし綾の耳には入らなかった。 千鶴の左手を掴んだまま首を傾げる。 綾より少し小さなその手は、手荒れどころか傷一つない。 まるで大名家の姫のように、生まれてこの方水仕事をしたことのない者の手のように。 まさか自分や幹部達の目がないところで怠けているのだろうか。 それはない、と直ぐに思い直す。 千鶴が率先して家事をしているのは紛れもない事実だ。度々現場に居合わせているし、千鶴の性格を考えても、人を欺くとは考え難い。 「綾、さん?」 訝しげな千鶴の声で、ようやく我に返る。 ごめん、と言いながら手を離した。 不安そうな目をしている千鶴に笑顔を見せ首を振る。 胸の鼓動が速まっているが、それは顔に出さなかった。 「ごめん、何でもないよ。それよりも、平助は今頃何しているんだろうね」 取り繕って出した話題は苦し紛れだったが、素直な千鶴は何も気づかなかったらしい。 彼女は眉尻を下げて空を仰いだ。 「頑張っているんでしょうね」 「元気に走り回っているんだろうね。平助は江戸が好きだから」 「そうですよね。江戸の知り合いなんかに、会っているかも知れませんよね」 そう言いながら千鶴は微笑むが、その表情に違和感を覚える。 大きな瞳の奥が、哀しそうだと思った。 瞬間綾は思い出す。そうだ、千鶴は江戸の出身だった。 父と二人で仲良く暮らした江戸の町。帰りたくても帰れない、故郷。 そこに平助はいる。 拙い話題を振ってしまった。綾は申し訳なくて、目を伏せた。 「本当は、千鶴が誰よりも行きたかったよね」 暗い声音に千鶴は目を見開くが、直ぐに緩々と首を左右に振ってみせた。 顔には柔らかい笑みが浮かんでいる。 「もちろん江戸は懐かしいですが、ここにいるのも凄く楽しいですから」 「…いいよ、千鶴。本音を話しても、責めたりなんかしないよ。むしろ、」 「嘘じゃないです。私、最近思うんです」 綾の言葉を遮って、世辞ではないと言い放った千鶴を黙って見つめる。 そうはいっても今の暮らしが、彼女にとって良いものであるとは思えない。 何せ未だに千鶴の父である雪村綱道は見つかっておらず、彼女は一人で外出することは許されていない。 そんな不自由な生活の中に身を置いているのに楽しい人間がいる訳がないと思ったのだが、予想に反して千鶴の声は明るかった。 「江戸にいたら確かに平和だったと思います。平凡に穏やかに、毎日は流れていったはずです。けれど絶対に、皆さんには会えなかった」 「千鶴…」 「私は会えて良かった。皆さんにお会い出来て、嬉しかった。本当にそう思うんです」 照れたようにはにかんだ千鶴を、綾は凝視した。 胸には温かいものが広がる。 優しい子だとは思っていたが、ここまでだったとは。 綾は泣きたいような、笑いたいような不思議な波に襲われていた。 それは幸せな感情だった。 「私も、千鶴に会えて良かったよ」 本当に、そう思ってる。 一つ一つ区切るようにゆっくり話した綾に、今度は千鶴が嬉しそうに笑った。
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