翌日の昼間。 日常から切り取られたような、静かな空間に綾はいた。 茶道具を目の前に、深く息を吸う。 六畳の質素ながら品のある茶室に、綾と、部屋の主である近藤はいた。 近藤は江戸へ行く前に綾に頼まれたことを覚えていた。 帰ってからは多忙な日々が続いていたが、ようやく余裕が出来たので綾を別宅に招いたのである。 新選組の幹部はそれぞれ屯所の外に別宅を持つことが許されている。 近藤は醒ヶ井木津屋橋下に妾宅を持っていた。 この屋敷の主は、お雪という女である。 深雪太夫という名で知られた遊女だったが、近藤に身請けされて以来この屋敷に囲われていた。 島原の遊女達は、その辺りの飯炊き女達とは違い、格式高い女性達である。 春は売らず芸一つで勝負をする彼女達は、大名家の姫達にも引けを取らぬほどの教養があった。 茶道は戦国の世に千利休が大成して以来、武家の嗜みの一つである。 近藤は京に来てからというもの、武家としての教養を一つずつ習得していた。 そんなこともあり、この妾宅には茶室が設けられていたのである。 さらさらと綾は慣れた手つきで茶筅を動かす。 茶碗は清水焼の黒塗りに金粉を塗してあるものだ。 細かい泡を素早く立てて、大きな泡は茶筅の先で潰していく。 綾は裏、表のどちらの茶道も嗜んでいた。 点て終えた茶を、静かに近藤の目の前に差しだす。 近藤は頷き一つの後、その茶を飲んだ。 尊敬する人に初めて出すということで、綾は並々ならぬ緊張で身体を強張らせる。 僅かに喉を鳴らして近藤は綺麗に飲んでしまい、茶碗を畳の上に置いた。 「けっこうなお手前で」 そう言って微笑む近藤を見て、ようやくほっと綾は息をついた。 幼少の頃から武家として嗜み、身近な人に振る舞ったことはあるが、近藤に出すのは格別の想いだったのである。 笑みを零して綾はその茶碗を受け取った。 部屋の外で、石と竹がぶつかり合う鹿威しの軽やかな音がした。 日頃の喧騒が嘘のように静まり返った場所である。 同じ京だというのに、まるでこの地だけが切り取られたように違う雰囲気を持っていた。 「雪之丞」 「はい」 茶の湯の片付けを終えた頃合いを見計らって、近藤は声を掛ける。 綾が身体ごと向けると、彼は笑いながら懐から袱紗に包んだ何かを取りだした。 「これを、お前に」 「私に…?」 「ああ、そうだ」 受け取るように、と促され、綾は訝しがりつつもその包みを受け取った。 紫色の袱紗に包まれたそれを、慎重に広げる。 中身を見た途端、綾は弾かれたように顔を上げた。 瞳は驚きで丸くなっている。 あからさまな表情を見せた綾に、近藤は何度も頷いた。 「江戸の土産だ」 袱紗に包まれていたのは、正方形の羽二重を三角形に折り畳んで組み合わせることによって鳥や花などを作りだす、江戸名物の簪である。その名をつまみ簪という。 手頃に手に入るので、武家はおろか町人の婦女子達もこぞってつけた。 紀州に生まれ、会津で育った綾もそれなりの簪を持っていたが、つまみ簪は手元になかった。 男装をすることが多く、また正装の際には京物の簪を身につけることが多かったので、あまり縁が無かったのだ。 それを見越してなのか、近藤が買ってきた簪は赤を基調した菊を形作ったものだ。 細やかな細工には職人の業が垣間見られる。 値が張る物だろうと、初めて見た綾にも解る。 驚きで胸を満たした綾は、目を見開いたまま近藤を見つめた。 「これを、私にですか…?」 「そうだ」 「でも、私は…」 「まさか練りきり一つという訳にもいくまい」 そう言うと、近藤は朗らかに笑った。 「江戸の自慢の品だからな。お前に買ってきたものだ、受け取りなさい」 「だけど…」 「いつまでも、男の成りをしている訳ではあるまい。いつか女子に戻る時につけなさい」 綾の言葉を遮ると、近藤は幼子に言い聞かせるような優しい口調で言った。 もう一度簪に目を向ける。 若い娘が好みそうな、明るい色合いの美しい簪である。 恐れ多いと惑うが、近藤が何度も受け取るように言うので、綾はようやくそれに触れた。 赤い色がふんだんに使用されているので、大層値が張るだろう。 染色の際に赤を出す紅花は高価であり、その上赤は幾重に染めねば綺麗な色が出ないので手間がかかる。 そんなことは、流石の綾も知っていた。 胸の前でぎゅっと袱紗ごと抱きしめる。 綾の瞳は輝きに満ちていた。 「ありがとうございます」 感動のあまり声音が震えた。 そんな綾を見て、近藤もまた嬉しそうに頷いた。 続
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