五月雨 | ナノ










島原の界隈はこれから夜深くなる為か、一層賑やかで活気がある。
人の波を縫うように沖田と綾は歩いた。
酒の匂いと三味線の音、呼び込みの張り上げた声が響いている。
綾の数歩前を歩く沖田の背中はそれらに動じなかった。


沖田のことが、好きなのだろうか。
先ほど千に言われた言葉を、綾は胸の中で繰り返した。
考えたこともなかったが、言われてみればしっくりした。
やたらと沖田のことが気になる訳も、沖田の笑顔が身体中を震わすことも、時折気紛れに掛けられる優しい言葉に天にも昇りそうな想いになることも、全て納得出来た。
いつからなのか考えても、綾には解らない。
ただ、芽生え始めた淡い感情がそこにあることだけが、本当だった。


幼少の頃に染が読んでくれた御伽草紙や、人形浄瑠璃の話の筋を思い起こす。
その時は訳も解らず胸を高鳴らせたものではあるが、今では解る気がした。
小さな何かが心の底で育っていた。
これが、恋なのだろうか。


ぼんやりしていた綾は、すれ違う人に肩がぶつかりよろめいてしまう。
足を取られて転びかけた彼女の腕を、咄嗟に沖田は強く引いた。


「何しているの?」
「あ…、すみません」


ハッと我に返ると、慌てて謝った。
沖田は眉を寄せていたが、気をつけて、とだけ言うとまた腕を離して歩き始める。
その背を追おうとした彼女は、不意に気づく。
沖田の歩調は先ほどよりも遅くなっていた。


駆け足で沖田の隣に並ぶ。
花街独特の行燈に照らされた横顔は、橙色に染まっていた。
綾は沖田を眺めた後、直ぐに視線を逸らす。
何だか胸が痛いほど、締め付けられた。


「今日の君、やけに静かだけどどうしたの?」


ふと沖田が尋ねる。
翡翠色の瞳が、緩やかに視線を投げかける。
反射的に顔を上げた綾は、驚いて目を見開く。
島原の煌びやかな光が、朱色に染まった綾の頬を隠す。
その事実に心底感謝した。
顔に感情を出さないことに長けているが、今の綾にはその自信が無かった。
いいえ、と問いに否定するだけで精一杯だ。
そんな綾に、沖田は不思議そうな目を向けるが、深く追及せずに首を傾げた。


再び俯いた綾と、沖田の間に沈黙が流れる。
それを埋めるように織りなされる、店の先々から聴こえる音楽はどこまでも優雅だ。
京の夜の雰囲気は優しく二人を包む。
暫く互いに黙ったままだった。


こほっ、と小さな咳が静寂を破った。
綾は弾かれたように顔を上げた。
続けて沖田は咳を繰り返す。歪めた顔に苦痛が浮かんでいた。


「沖田さん、まだお風邪が…」
「何故か長引いているんだよね」


性質が悪いよね、と言いながら沖田は薄く笑う。
ようやく咳が治まったようだが、綾の耳には咳をする時のくぐもった音が残っていた。
良くなるどころか、以前よりも悪化しているのではないだろうか。
嫌な予感が駆け巡る。
ただの風邪がこうも長引くものだろうか。こうも月を跨ってしまうものだろうか。


「お医者様に診せた方が、良いのではないですか?今度の非番の時にでも、お医者様のところへ行った方が…」
「そうだね、そのうちに」
「沖田さん!」
「…まだ、駄目だよ。今は、まだ」


綾の焦った声に、沖田は緩く首を振る。
困ったような表情の中にも、強い意思の宿る瞳があった。


「伊東派が落ち着くまでは、まだ」


はっきりした声音だった。
綾はもう何も言えなくなる。黙ったまま眉尻を下げた。


沖田は近藤派の主要人物である。
天然理心流の師範代で、近藤の直弟子だ。
数多くの門弟達の中でもずば抜けた才能を見せている。
年若いながらも一番組の組長を任されたのは、近藤の期待と試衛館の未来を背負っているということもある。


その沖田が今病にかかったなど、広まるのは拙かった。
伊東派は内部で勢力を伸ばそうとするだろう。そうなった時に、邪魔なのは近藤派だ。
近藤派の沖田が弱っているとなれば、隊士の中には見切りをつける者も出る。
何より近藤派の威光が下がってしまうだろうし、隊士の士気にも関わる。
それ故、病を押し隠さなければならない。


「沖田さん」
「うん?」
「もし、もし今よりも体調が悪くなった時は、無理をしないで私に声を掛けて下さい」


綾は真っすぐ沖田を見据える。
瞳には先ほどまでの動揺はなく、代わりのように意思が灯った。
流石は家茂の姉と呼ばれる、強き瞳だ。


「私が、対処いたします」


沖田は数回瞬きを繰り返したが、やがて軽く頷いた。
ありがとう、と言った彼の口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。





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