廊下に出るなり、沖田は散歩をしてくると言い残して姿を消した。 元々島原が好きな訳ではないので、山南と離れた今ではあまり気乗りしないのだろう。 綾は苦笑しつつもどこかホッとしながら、その背を見送った。 君菊に連れられ山南がいる部屋からさほど離れていない一室に入る。 襖を開けると見知った顔がいて、綾は驚いた。 「雪之丞さん!」 一方綾が来るのを知っていたらしい千は、にこやかに笑った。 君菊が座布団を出して促すので、綾は言われるままに腰掛ける。 先ほどまでいた部屋よりも狭いが、煌びやかさでは引けを取らない。 軽く辺りを見渡し、綾は感嘆の溜め息をついた。 隣の部屋からは賑やかな笑い声が聴こえてくる。 どうやら隣は団体客らしく、盛り上がっているようだ。 島原は一夜の夢を見せる、浮世離れした世界だ。 ここに来た者は身分関係なく、優しく綺麗な夢を見る。 千は随分前から部屋にいたらしく、手元には空になった湯呑みがあった。 流石に君菊はそれに直ぐ気づくと、千の湯呑みに茶を注ぎ足す。 そういえば、と綾は不意に思った。 そういえば千はどういった身の上の者なのだろう。 遊女ではないだろう。天神の君菊がやたらと気を遣っているが、太夫にしては身軽な恰好をしている。第一遊女のように派手に着飾っていない。どちらかといえば小ざっぱりしている。 なのに平然と角屋に出入りしているから、戸惑うのだ。 それに千はどことなく気品がある。君菊が従うのも納得出来る、そんな気になる程。 いつの間にかじっと見ていた綾の視線をどう受け止めたのか、千は軽く微笑むと、湯呑みを手元に置いた。 「また会えて嬉しいわ、雪之丞さん」 「ああ、はい。俺も会えるとは思いませんでした。会えて良かったです」 「まぁ、本当に?良かった!」 明るい声を上げると、心底嬉しそうに千は顔を輝かせた。 それを見て綾も微笑ましい気持ちになる。 千鶴のように幼くはないが、元気な雰囲気に自分も釣られそうになる。 平助のような人だと、綾は思った。 自然と周りに人が集まる、平助のような温かい空気を持った人。 千はまさにその属性だ。 微笑みの残像をそのままに、千はふと綾の顔を覗き見る。 一瞬だけ君菊と目を合わせた彼女は、少しだけ気遣わしげな視線を向けた。 何だろうと綾は顔を顰める。 すると千は、 「一つだけ質問、いいかな?」 と尋ねた。 面食らいながらも綾が頷けば、千は僅かに身じろぎしてそれから綾の瞳を真っすぐ見た。 「なんで女の子が男装して、新選組にいるのかな?」 思わず綾は口に運びかけていた湯呑みを止める。しかし直ぐに何事もなかったかのように一口だけ茶を飲んだ。 心臓の脈拍は速くなっているが、表情には一切出さない。 こういったことは、生まれのこともあって流石に上手かった。 「女の子って、何のこと?もしかして、俺が女だって思ってるの?」 「とぼけなくても良いわ。解ってるの。あなた、女の子でしょう?」 全く動じず千は静かに言った。 綾はそこで初めて困惑する。 あまりにも千が確信持った話し方をするからだ。 普通の人間ならば、平気そうな綾の様子を見て撤回する。 それなのに千はそうするどころか、未だ自分の意見を押し通している。 そのことに綾は当惑したのである。 「ねぇ、雪之丞さん。私、何もあなたを脅迫しようとか、そういう目的で尋ねているんじゃないの。ただ、女の子なのに新選組にいるのでは、何かと不便なことがあると思って」 「お千さん…」 「あなたの力になりたいの。こうして知り合えたのも、何かの縁だと思うし」 そう言いながら、千はそっと綾の手を握る。 真っすぐな瞳はどこまでも誠実だった。 信じていいものだろうかと、綾は迷う。 されどいくら見つめても千の瞳に嘘偽りはなく、それどころかどこまでも澄みきっていた。 まだ千とは出会って二回目だ。信じるというには早い。 それでも信じてみようと綾は思った。 不思議な娘だ。人にそんな気にさせるところがある。 雰囲気が柔らかいからか、真っすぐだからなのか。とにかく信用しようと思ってしまう。 少しだけ笑みを落とすと、綾は深く頷いた。 「今は特に悩みはないけど、もしその時が来たら頼もうかな」 綾の言葉に、千は目を輝かせると頷き返した。 三味線の音に乗せて、微かに歌声が聴こえる。 隣の部屋で遊女が奏でているのだろう。 それは切ない恋の唄だった。 綾は自然と固く手を握る。 何だか胸が締め付けられそうだった。 「君菊はん姐さん、沖田はんって方がお探しどす」 突然扉が僅かに開いたかと思うと、禿が顔を覗かせた。 どうやら散歩に飽きた沖田が探しているらしい。 綾は自然と笑みを落とし、千に別れを告げようとした。 「雪之丞さん」 だが先に口を開いたのは、千だった。 千は慈しみを籠めた眼差しで綾を見つめ、静かに微笑んだ。 「あなた、沖田さんって方が好きなのね」 「…え?」 「とても嬉しそうだもの。解るわ」 それは綾にとって、青天の霹靂だった。 驚いて目を見開く彼女の肩を、千は軽く叩く。 しかし綾はそんなことにも気付かないほど驚いていた。 沖田のことが好き? 沖田のことが、好き? 綾にとっては意外すぎる言葉だった。 今まで恋などしたことはない。お姫様として屋敷奥で匿われ、大事に育てられてきた。 高貴なる身分の者は政略結婚が主である。 いくら隠れた姫とはいえ、綾もまたその枠の中で生きてきた。 だから綾にとって恋なんてものは、御伽草紙の一節でしかなかったのだ。 「あ、いたいた。雪之丞くん、探したよ」 呆然と立ち尽くす綾の耳に、渦中の人物の声が聴こえる。 肩を震わせ振りかえれば、笑顔で手を振る沖田がいた。 沖田の傍に禿がいるところから見るに、ここまで案内して貰ったらしい。 随分退屈して作ったのか、沖田は禿に案内してくれたお礼にと、折り鶴を渡していた。 「山南さんは今日は泊まりらしいよ。だから僕たちは土方さんに怒られる前に帰ろう」 「あ、…はい」 「何?どうしたの?まさか君も泊まりたいって言うんじゃないだろうね」 「違います!帰りましょう!」 綾はむきになったまま、千と君菊に別れを告げる。 二人はにこやかに手を振りながら、またねと言った。 それにどう返事をしたのか解らないまま、綾は沖田の背を追いかける。 沖田はいつものように、のんびりと廊下を歩いていた。
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