歓声飛び交う中、三番手の綾は強張った面持ちで竹刀を掴んだ。 既に先鋒の原田と次鋒の井上の試合は終わっている。どちらも伊東派の勝ちだった。 槍が専門の原田は苦戦し、井上も僅差で敗れた。 土方は苦虫を噛み潰したような顔をしている。 これ以上負けるわけにはいかなかった。
名を呼ばれ立ち上がると、綾は中央まで歩む。 伊東方は鈴木三樹三郎。伊東の実弟である。 この相手としては扱いづらい男に綾をぶつけたのは、一種の賭であった。 表向き綾は近藤の親戚筋となっている。立場としての複雑さは同じだ。 土方は伊東に遠慮して鈴木に勝ちを譲る気はなかった。
面を被ったまま一礼して竹刀を握る。構えは互いに八双。綾は真っ直ぐ相手を見据えた。 途端に今までの緊張が嘘のように引く。音が全て消え、周囲がぼやける。聞こえるのは己と相手の呼吸のみだ。
伊東の弟とだけあり、あからさまな隙はない。それでも綾に焦りはなかった。ただじっと時を待つ。慎重なところがある綾は勢いに欠ける分、辛抱強い。
静寂を破ったのは鈴木だった。 中段の構えから籠手に向けて飛ぶ。綾は冷静にそれを払うと、正面を向いたまま一端半歩後ろに飛んで、すぐに今度は彼女から詰めた。 一度胴に向かうと見せかけた竹刀は唸りながらせり上がり、上段から一気に面を目掛けて飛ぶ。鈴木は咄嗟に竹刀の端に右手を添えて、頭上で受け止めた。 容赦なく綾は振り下ろし続ける。竹刀と竹刀のぶつかる激しい音が道場中に響き渡った。 まるで雨霰のような綾の攻撃に鈴木は為す術もなく防戦一方だ。 それでも鈴木は力一杯綾の竹刀を押し、鍔迫り合いに持ち込んだ。 小柄な綾は本来なら鍔迫り合いに弱い。しかし彼女は真正面でそれを受け止めた。
『雪之丞くんは馬鹿正直に正攻法でいこうとするからいけない。君は男に真っ向から勝とうなんて思わずに、受け流してやればいい』
熱くなった方の負けだ。
沖田の言葉が頭の中に蘇った。 綾は足を捌き力を受け流し、隙をついて斜め後ろに飛んで三間間合いを取った。
鈴木は青眼の構えで守りに入る。途端に綾は右へ足を動かしたかと思うと、次は左に動いた。左、左、右、左、右。右と左を何の法則性もなく気ままに動かし相手を揺さぶる千鳥の足捌きだ。 鈴木は綾の動きに倣って足を動かすが、その途中に一瞬の隙が覗いた。
その隙をこじ開けるために綾は一気に間を詰め、胴目掛けて打ち込む。反応した鈴木の竹刀がそれを防ぎ、押し返す。 だが押し返された力を利用し、次は下段から顔目掛けて飛んだ。
バシン、と気持ちの良い音がする。 綾の竹刀の先端は、見事に鈴木の面を捉えていた。
「一本!」
審判の声が響くと、緊張が解け道場に溜め息が漏れる。 白旗は綾を指していた。 一礼の後に面を取れば、ようやく音が戻ってきた。
「おう!やったな、雪之丞!」
息をつく間もなく、背中を強く叩かれる。 振り向けば永倉が心底嬉しそうに笑っていた。
「本当に腕上げたよな!」 「斎藤さんと沖田さんのお陰です」 「お前も頑張ったんだろうよ!いやぁ、良かった良かった!」 盛大に頷く永倉の後ろから、原田が顔を覗かせた。 原田は先ほどの試合の名残か、汗で前髪が湿っている。 彼もまた、大きな笑みを浮かべていた。 「お疲れ。見事な足捌きだったぜ」 「ええ、斎藤さんに特訓してもらいましたから」 「ああ、千鳥だろ?見覚えあると思ったら斎藤のやつか。上手かったぜ」 二人に褒められ、綾は破顔した。 恐らく以前までの自分だったら勝つことは出来なかったが、努力の成果が実を結んだ。 鍛錬は楽しかった訳ではない。むしろ苦しいことが多かった。 だからこそ尚更嬉しかったのだ。 四番手、副将の永倉は笑顔の残像を残したまま立ち上がる。 伊東派の篠原が既に手拭を巻いていた。 意気込んだ永倉の背に笑みを落とし、不意に綾は目を走らせる。 道場の隅に腰掛けていた斎藤が、こちらを見ていた。 相変わらずの無表情であったが、不意に目元が緩む。 力強く一回だけ頷いて、斎藤は再び視線を永倉に戻した。 良くやったと言われたようで嬉しいと、綾はもう一度微笑んだ。
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