act.6
暖簾を外していると不意に肩を叩かれた。振り返れば満面の笑みを浮かべた新八さんがいた。二月の終わりとはいえ、まだ肌寒い日が続いている。それなのに新八さんは寒さ知らずの薄着だった。
「こんにちは、新八さん」 「おう。な、果穂ちゃん。今日は店じまいか?」 「はい、今暖簾を下ろしているところです。あ、もしかして、お饅頭買いに来たんですか?」
尋ねると新八さんは笑んだまま頭を振った。眉間にしわを寄せた私の頭を、彼が乱暴に撫でた。
「今日は違う。果穂ちゃんと甘味を堪能しようと思ってな」 「甘味、ですか」 「そう。店閉めたんなら暇だろ?付き合ってくれよ」
呆気にとられた私を余所に、新八さんは歯を見せて盛大に笑う。まるで幼い子供のように純粋で温かな笑顔だった。こういうところが彼の魅力なんだと思う。 当然断る理由なんてなかった。いつだって新八さんの誘いは、喜びを運んでくれた。
八重さんに外出と夕餉の手伝いが出来ないことを謝ると、快く了承してくれた。八重さんはいつも私の意思を尊重してくれる。本当に贅沢でありがたいことだ。 彼女は私が誰かと関わることを良いこととしてくれているのだ。外に出なさいと、誰かと話しなさいと言う。 きっとトリップしたばかりの頃に知り合いもいなくて悶々としていたのを、気にしてくれていたのだろう。気づかれないようにしていたつもりだけど、知らず知らずのうちにどこか態度に出ていたらしい。だから最近明るくなったと、何度も言ってくれる。
それは平助を始め、新八さんや左之さんのおかげだった。中でも平助に楽しめば良いと言われた時のことが大きい。あれで気が楽になって、肩の力が抜けた。 本当にトリップして平助に出会えて良かったと思う。 でないと私は今でも、暗闇の中にいたのだろうから。
あれ以来、平助と会うのはますます楽しくなった。楽しみで楽しみで仕方なくて、反面少し気恥ずかしい。この感情の名前に私は薄々勘付いていた。 見ないふりをしよう。そう思って抑え込むけれど、決壊するのも時間の問題。心の奥底でそう思うほどに。
彼は幕末の人で、住む世界が違う。今はそう、修学旅行効果のようなものだった。旅先では他人が普段と違った見方で見える。恋が起こりやすいのはそういうことだと、聴いたことがある。今の私はその状態に陥っているのだ。 毎日のように自分に言い聞かせていた。これは違うのだと、言った。
「お、準備出来たか?」
座敷に座って待っていた新八さんは片手を上げてみせた。行くか、と立ち上がった彼の後ろに続く。後ろから見ても彼はやはり寒々しい恰好をしている。寒くないのかな、と思うけれど、それを尋ねるのは野暮だった。 以前訊いたとき、平気だとか鍛えているとか言われて以来、逞しい人だからなぁと思うようになった。
通りに出ると夕日が傾きかけて、一面をオレンジ色に染め上げていた。夕飯時だからか人通りが多い。様々な恰好をした人が行きかっていた。 新八さんと肩を並べて歩いた。長く伸びた陰が濃い。仕事を終えた人たちが居酒屋に向かっている。
「今から行く甘味処は隠れた名店ってやつでよ、団子がそれはそれはほっぺたが落ちるほど旨いらしい」 「そんなお店があったんですね。新八さんは行ったことあるんですか?」 「いや、俺も島原の芸妓にちらっと聞いただけだから、詳しくはねぇんだがよ。場所だけはちゃんと聞いてきたから期待していいぜ!」
新八さんはそう言うと、どんと勢いよく胸を叩いた。しかしすぐにそんな彼の顔が真っ青になる。何かに気づいたように焦り始める。
「あ、違うんだよ!」 「え?何がですか?」 「いや、だから!その、島原って言ったけどな、俺は別に女目当てで行ってるわけじゃなくてな、」 「…え?」 「俺はただ酒を飲みに行ってんだ!綺麗なお姉さんと酒を交わすのが嬉しいってわけじゃなくてな。いや、嬉しいけど、でもそれが目当てじゃなくて、」
ああ、それで。心の中で呟いた。何をそんなに必死になっているんだろうと思ったけれど、どうやら島原に行ってることを言い訳しているらしい。思わず笑みが漏れた。そんなことで騒ぎ立てるほど野暮じゃない。私の知ってる“現代”でもキャバクラを接待の場として使うことはあるし、もしそうでなくプライベートであっても島原でストレス発散することもあるんだと知っていた。この時代の侍の嗜みのようなものと聞いたことがある。褒められた行為でないにしろ、批難したりしないのに。 それに新八さんが口でいくら調子の良いことを言っていても、根っから真面目だということも知っている。軽蔑とかそんなことをするわけがなかった。
私が軽い笑い声をあげていることにようやく気付いたのか、必死に捲し立てていた新八さんははたと口籠った。ぽかんと開いた口と呆気にとられたその表情が可笑しくて、ますます笑みが漏れる。
「大丈夫ですよ、解っていますから」
ひとしきり笑ってそう言えば、彼はようやく元の笑顔に戻った。
「そっかそっか!やっぱ果穂ちゃんは俺のことよく解ってるな!平助と左之は誤解してやがるからよ、てっきり果穂ちゃんもと思ったけれど、思い違いだったようだ。ごめんな!」
大げさに声を張る新八さんを見上げる。やはり笑みが止まらない。 素直で面白い人だなぁと思った。こうした彼の明るさに癒される。まるで本当の兄のようだと、兄だったら良いのにと心の中でひとりごちた。
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