ただ、そばにいたいだけ | ナノ










act.5



お客様を見送って頭を上げると、八重さんが手招きをしていた。首を傾げて駆け寄れば、彼女はにこやかに笑っていた。


「さっきちょっと買い物に出ていたんだけどさ、そこで平助さんに会ったよ」
「…え?平助に?」


八重さんの朗らかな声に気圧されて、一瞬反応が遅れた。無意識のうち前掛けをぎゅっと握りしめてしまう。
年が明けて少し。平助が何をやっているのかは相変わらず知らないけれど、どうやら彼が忙しいらしいということを知った。
その証拠にもうすぐ二月に差しかかるというのに、平助とはほとんど会っていない。年明け直ぐに新年の挨拶をしたっきりだ。


だけど忘れた訳じゃなかった。ずっと覚えていて、胸の奥につっかえていた。
毎日忙しくて充実していたのに、平助に会いたかった。平助の笑顔を見てホッとして、平助の声に耳を傾けたかった。いつからこんなにも彼が大きな存在になったのだろう。
解らないけど、会いたいという事実が胸を占めた。
平助のことを考える時だけ、私は現代のことを忘れていった。


態度に出したつもりはなかったけど、八重さんは私の心情などお見通しだったのだろう。
乱暴に私の背を叩き、彼女は豪快に笑った。


「今日は会えるらしいよ」
「…え?」


顔を上げた私に、八重さんは頷いた。


「年明けから忙しくて自分の時間がなかったけど、今日は久しぶりに暇が出来るから果穂ちゃんに会いにくるって」
「私、に?」
「平助さんも果穂ちゃんに会いたかったって」


自分でも現金だと思う。八重さんの言葉を聴いて、胸の中が温かくなっていくのだから。
嬉しくてにやけそうになるから、慌てて両手で頬を抑えた。
何だか熱くなっている。熱を帯びているから、きっと私、今真っ赤なんだろう。そう思うとますます恥ずかしくって余計に熱が集まる。酷い悪循環だった。


八重さんは私を肘で小突くと、面白そうに笑っている。江戸出身者のためか気さくな彼女は普段好きだけど、こういうときは困ってしまう。まるで悪戯っ子みたいなのだ。


「昼過ぎには来るって。今のうちに部屋に火鉢を置いておきなさい」
「あ、でも、八重さん、」
「午後は休憩。後で饅頭取りにおいで。ちょうど蒸し上がっている頃だろうし」


その優しい眼差しに、私は自然と微笑んだ。
饅頭屋の皆さんは、本当に私を可愛がってくれている。実の娘のように大事にしてくれているのだ。
どこの馬の骨とも知れない私を放り出すどころか家族の一員としてふるまってくれるなんて、本当にありがたいことだと思う。
私は恵まれているんだろう。そう思わざるをえない。


八重さんに背中を押されて部屋に戻った。
店の方は忙しい時間帯ではないから、お客さんはほとんどいない。掃除するなら今のうちだった。
火鉢で部屋を暖めながら片づけをした。といっても、私物はそんなにない。
僅かに手元にあった本を並べたくらいだった。


見渡した先で不意に硬直する。視線の先には箪笥があった。
引き出しを開けると着物が並んでいる。八重さんが若い時に着ていたものを譲り受けたのだ。
私には着物の良しあしは解らないけど、単純に綺麗で可愛いと思う。
こんな素敵な物を貰えて本当に嬉しい。


色とりどりの着物に触れ、その下にあるものを探し出す。
携帯電話や財布だ。全て現代で使っていたものだった。
真っ黒な携帯の画面を茫然と見つめた。ブラックアウトした画面には、寂しそうな顔をした女が映り込んでいた。


現代に帰ることを、半ば諦め始めていた。帰る方法も兆候も何もない。どうしたら戻れるのか、全く解らなかった。なんせタイムスリップしてしまったきっかけすら不明なのだ。気が付いたら幕末だった、ただそれだけだ。
残してきた家族のことを考えない日は、正直なかった。むしろいつも考え続けている。特別仲が良かった訳ではない。ありふれた家族だった。だけど私にとって、何よりも大切な人たちだった。


「果穂ちゃん!掃除終わった?」


階段の下から声がして我に返る。感傷に浸っている場合ではなかった。
慌ててはい、と返事して箪笥を閉める。
一度だけ箪笥を振り返って、それから階段を駆け降りた。


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[bkm]