act.3 「果穂!」 ちょうどお客さんに下げていた頭を上げると、目の前に満面の笑みで手を振る平助がいた。 私も思わず頬が緩む。 平助の明るさには、いつも釣られてしまう。 「今日は早いね」 「あー、うん。早く出ちまった」 軽やかにそう言うと、平助は頭を掻いた。 今の時間帯はあまりお客さんがいない。だから、この時間に私は自由時間を貰っている。 それを言うと、平助は暇を見つけて来てくれるようになった。 「あら、平助さん」 「八重さん、こんにちは!」 会話を聞きつけ、八重さんが顔を見せる。 頻繁に遊びに来る平助のことを、八重さんも受け入れてくれた。 元々愛想のよい平助はこの饅頭屋の皆さんにも気に入られたようだ。 本当に良かったと思う。 「今日は新作の饅頭があるから、後で出すよ」 「ホント!?流石、八重さん!」 「任せなさいって!」 八重さんは勢いよく平助の背中を叩くと、今やって来たお客さんの接客を始めた。 顔を見合わせ、私たちは店の裏手、居住スペースに移る。 お婆さんも旦那さんも店の勝手場の方にいるらしくて、こちらの方は静まり返っている。 階段を上り二階の四畳の一室、ここが私に与えられた部屋だ。 小さな文机は窓に向かって設置してある。 私が机に向かうと、平助は横に座った。既に道具はセットしてある。 墨を摺って筆を手に、紙と向き合った。 「そんじゃ、始めようか」 平助はそう言うと、おもむろに懐から一冊の本を取り出した。 寺子屋で使われるという手習本だ。 どこからか入手してきたらしいそれは、古本の為か端の方が擦り切れて、表紙は色あせている。 それでも私の為に手に入れてくれたと思うと、申し訳ないと共に嬉しかった。 居場所がないと泣いたあの日、勢いに乗ってそのまま文字が読めないことも暴露してしまった。 すると平助は自分が文字を教えると申し出てくれたんだ。 自分はある程度教えられるからって、本まで用意してくれた。 平助がどこで何をしている人なのか解らない。 江戸出身の浪人だと言ってるけど、普段何をしているのかは何だか聞いちゃいけないみたいで、聞けずにいる。 浪人ってことは、尊王攘夷派とかなのかなぁ、とは思うけど、いずれにしろ憶測の域は出ない。 それに私も身元を詳しく突っ込まれたくないから、追及しないようにしている。 だけど、平助は悪い人ではない。これだけは確実だ。 私を騙そうとか貶めようとか、そういった悪意はこれっぽちもない。 身元は解らないけど、平助が凄く温かくて良い人なことだけは確かだから、構わないと思っている。 この時代、身元不明の人なんてそう珍しくないみたいだし。それに身元不明なのはお互い様だ。 「この間のおさらいからな」 「うん」 頷くと、私は筆を持つ手に力を籠めた。
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