「俺も別に江戸に帰りたくない訳じゃねぇよ」
沈黙を破ったのは平助だった。地に足がついたしっかりした言葉だった。 顔を上げた私に、彼は小さく微笑んだ。
「京のはんなりした公家的な空気より、俺には江戸のさっぱりした空気の方が性に合うし。どこかよそ者を馬鹿にしてるっていうかさ、そういうところ好きになれねぇし」
卓袱台に頬杖ついて平助が毒づく。私は微かに頷いて同意した。確かに京都の空気にはよそ者を拒絶するようなところがある。私はまだ饅頭屋にお世話になっているから良いのだけれど、完全なよそ者である平助への風当たりは強いのだろう。京の人は浪人というか、武家に冷たい。
さすがの平助もそれには堪えているらしい。徐々に彼の顔が険しくなった。
「言いたいことあるならはっきり言って欲しいっていうのが、俺らの本音。影でこそこそされんの好きじゃねぇ」 「それなら、どうして京に留まっているの?」
尋ねると、平助の表情が和らぐ。軽く笑って彼は頷いた。
「果穂って本当に真面目だよな」
唐突な言葉に、一瞬何を言われたのか解らなかった。私が真面目?脈絡が解らなくてポカンとした私に平助の手が伸びた。大きな手のひらは私の頭を優しく叩く。まるで幼子を慰める兄のようだった。
「帰りたくても帰れないならさ、いっそのこと楽しんでしまえばいいんじゃねぇか」 「楽しむ…?」 「そ」
障子越しに注ぐ光がオレンジ色に変わっている。日が傾き始め、夕方に入ろうとしているようだった。子供の笑い声が聴こえてくる。穏やかな昼下がりだ。
「京を楽しんでここでの生活を楽しむ。旅行にでも出ているんだと思って、満喫しちまうんだよ。そしたら気持ちも明るくなるし、毎日楽しいだろ」
考えたこともなかった。旅行気分で楽しんでしまうなんて。どこかで現代のことを考えていないと帰れない気がして、ずっと思い悩んでいた。 平助の考え方は明るくて影がない。そうだね、と返事をした声音は、自分が思ったよりも明るかった。
「楽しむ、かぁ…」 「俺も京に来たばっかで詳しくないけど、春の桜は見事だっていうぜ。旨い食いモンも多いみたいだし、そういうの楽しんでみるのも良いよな!」 「…平助はやっぱり食べ物に落ち着くよね」 「俺が食い意地張ってるみたいな言い方すんなよ!」
声を張り上げた平助に、ごめんごめんと謝った。平助は軽く私の背を叩く。 一気に胸の中に溜まっていた黒い煙が晴れていくのを感じた。心が軽くなった。 やっぱり平助は凄い。人を明るい気持ちにさせるなんて、一種の才能だ。トリップをしてこの人に出会えて本当に良かったと思う。
楽しんでみたいと心の中で呟いた。幕末の京を満喫しよう。そうだ、私は観光に来ているんだ。生活の体験に来ているんだ。現代に帰れば日常が戻ってくるし、それまでは楽しんでしまおう。楽しんでも憂鬱な気分になっていても、どっちにしろ同じように毎日は流れていくのだから。
「平助」
呼びかけると平助は私を見つめる。この綺麗な瞳を、私も真っ直ぐ見つめ返した。
「ありがとう」
心からの感謝は平助に伝わったらしかった。いつものように大きく笑って、平助はおうと返事をする。 太陽のような温かな笑顔に、私も自然と微笑んだ。
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