ただ、そばにいたいだけ | ナノ










障子から昼下がりの日差しが落ちる。柔らかな光が平助の整った顔に陰影をつけて、余計に顔立ちを引き立てた。
大きな瞳を縁取る睫毛が長いだとか、真っ直ぐに鼻筋が通っていているんだとか、卓袱台の上に無造作に置かれた手のひらはごつごつしていていかにも男の人の手だとか、小さな発見をする。そのたびに宝物を手に入れたみたいに、胸に嬉しさがせり上がった。


八重さんは約束通り饅頭を持ってきてくれた。ほかほかの温かい饅頭は、手のひらに載せるだけで幸せな気分になる。両手に抱えて頬張る平助の横顔はどこか幼かったけれど、好感に思えた。


「俺さ、京に来て初めての正月だったんだ」


何の脈絡もなく、唐突に平助は話を切り出した。彼の視線は私ではなく手元の饅頭に向けられている。それを良いことにまじまじと彼を眺めた。長い睫毛が揺れていた。
どこか遠くを見るような目をして平助は息を吐いた。


「去年も別に豪華絢爛な正月を送った訳じゃねぇけど、今年は殊更金がなくてさ。京で正月迎えんの、割ときつかった」


皿の上の饅頭は随分減っていた。ほとんど平助が手をつけていた。乱暴な物言いが目立つ人だけど、平助には上品なところがある。恐らく育ちが良いのだろうと思っていた。
だからこそ今年貧乏な正月を過ごしたということに驚いた。てっきりある程度保障された身の上だと思っていたのだ。


「…そんなに生活、苦しいの?」


恐る恐る尋ねれば、平助は僅かに顔を顰める。そして彼はいつも通り明るく笑って頷いた。


「苦しいなんてモンじゃねぇよ。金足りないの何のって!いやぁ、ま、仕方ないんだけどさ」


内容は深刻なのに平助はあっさりした口調で言った。まるで生活の苦しさを笑い話にしているようだった。平助には潜在的にこういうところがある。周りの人を絶対に不快にさせない。辛かったことすら明るい話題にすり替えてしまうのだ。
平助は整った容姿をしているけど、それ以上にこうした部分が素敵だと思う。マイナス思考気味な私にとって、平助は憧れでもあった。


「嫌にならないの?」


私が尋ねると、平助は一瞬だけ虚を突かれたような顔をする。まるで意外なことを言われて理解が遅れたような、そんな顔だ。そして彼は再び笑い飛ばした。


「嫌になるかならねぇかって言ったらもちろん嫌だぜ。けどさ、それ以上に本懐を遂げる為の踏み台だから仕方ねぇとも思っているんだ。だから平気」
「本懐?」
「そ。ま、あれだな。志みたいなもんかなぁ」


聴きなれない言葉に顔を顰めた私に、平助は笑いかけた。少しだけ平助が羨ましくなる。明確な目標を持って突き進む彼はあまり歳が変わらないというのに、大きく見えた。未だトリップしてしまったことをうじうじ悩んでいる私とは大違いだ。平助には芯がある。


「平助は凄いね」


ぽつりと呟くと、今度は平助が眉を顰めた。黙って彼は私を見つめる。真意を探っているみたいだった。
平助は凄い。というより、平助の周りの人たちも含めて皆凄い。まだ若いのに自分の進むべき道を明確にしている。そんなのしっかりしていないと出来ないことだ。目標の為に苦難すら受け入れられるなんて、凄過ぎて驚いてしまう。
だから一方でそんな信念も何も無く、恵まれた生活の中に現代を思い出している私が情けなくて堪らなかった。


「江戸に帰りたいとか、思ったことないの?」


平助は瞬きを繰り返して私を見据える。濃い緑色の綺麗な瞳には濁りがなかった。緑色を見るたびに私は平助を思い出すだろう。そう思わせてしまうほど、何よりも美しい緑だった。
あまりに真っ直ぐ見つめるから、私も目を逸らせない。時が止まったような気がした。


「果穂、故郷に帰りたい?」


気遣わしげな声音で平助が尋ねる。嘘や冗談なんかで逸らせるような雰囲気ではなかった。黙って俯いて意味もなく畳を見つめた。胸が痛かった。


「…そっか、帰りたいんだな」


私の態度で察したらしい平助が、柔らかい口調で言った。とても優しい声だった。

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[bkm]