ただ、そばにいたいだけ | ナノ









八重さんの言葉通り平助は昼過ぎにやってきた。
彼が来るまでドキドキしていた。暖簾が動くたびに身体に緊張が走った。
にやにや笑いながら八重さんが私をからかう。何だかそれすら気恥ずかしくて、真っ赤になってしまった。


「果穂!」


記憶と違わない朗らかな声だった。平助は満面の笑みを浮かべながら片手を上げる。
平助一人がいるだけで、場に温かな空気が満ちた。不思議な人だと思う。存在だけで周りを明るくしてしまうなんて、凄い才能だ。


「久しぶりだな!元気だったか?」
「うん。平助は?」
「俺も元気元気!」


嘘のない声音で言うと、平助は八重さんに向かい合う。八重さんは相変わらずにやにや含み笑いをしていた。何だか今までの緊張も何もかも見透かされているみたいで気恥ずかしい。
唇を薄く噛んでそっぽを向く。わざとらしいと解っているのに、目を逸らさずにはいられなかった。
そんな私に八重さんは明るい笑い声を立てた。一枚も二枚も上手をいかれているみたいで、ますます恥ずかしかった。


平助は私の些細な変化なんて気付いていないようで、キョロキョロと興味深げに店内を見渡す。平助が来ない少しの間に模様替えをしたから、その変化を楽しんでいるようだった。
気づかれなくて良かったと思う反面、気づかれなかったことに落胆した。自分の感情の複雑さに自分でも驚いてしまう。これではまるで、平助に恋しているみたいだ。許されないことだとは、解っているはずなのに。
それでも心臓がうるさくて、自然と胸を抑える。早まっていく鼓動は私の理性を嘲笑うようだった。


「いつ来ても旨そうな饅頭ばっか置いてるなぁ」


並べてある饅頭を見て平助はひとりごちる。その瞳は解り易く輝いていた。素直な彼は元々表情が出やすいけれど、殊に食べ物のことに関してはころころ変わる。あからさまに嬉しそうな顔をするのだ。確か二十歳すぎているというのに純粋な人だと思う。
そういった無邪気なところも、私は好きだった。


八重さんは自慢の饅頭を褒められて、顔を綻ばせた。饅頭屋の皆さんがいつも一生懸命、それこそ魂を籠めて饅頭作りに励んでいることを私は知っている。
現代でもきっと、ケーキ職人さんとか和菓子の職人さんとか、似たような感じだったんだろう。それでも少なくとも私は特に意識せずに口に運んでいた。
幕末に来てそうした小さな苦労を知ることが出来て良かったと思っている。


八重さんは平助の背を力いっぱい叩いた。いてっ、と少し前のめりになった平助に、彼女は笑みを零した。


「後で山ほど饅頭持って行ってあげるからね!」
「やっりぃ!さすが八重さん!太っ腹!」
「もっと褒め称えて!」


二人のやり取りに、私も思わず声を上げて笑った。八重さんは気さくで面白い人だけど、そこに平助がいると更に面白い。単純に二人は波長が合うのだろう。
目じりに涙を浮かべて笑う私の肩を八重さんが軽く叩く。彼女は視線で店の奥の母屋の方を指した。
すぐそこに見える階段を上がれば私に与えられた部屋がある。平助が来ることを想定して掃除を済ませた部屋だった。


「寒いし早く部屋に入りな。饅頭は今蒸してるのが出来たら持っていくから」
「おう!待ってるぜ!」
「期待していてね」


ひらひらと手を振る八重さんに、私と平助は顔を見合わせた。お互いに口元が緩んだ。
八重さんに会釈して母屋に入る。店先から遠のいたせいか、少し寒さが緩和した。


急な階段を上り部屋の襖を開く。見慣れたいつも通りの自分の部屋なのに、平助がいるだけで空気が変わる。温かくて居心地が良くて、けれど心拍数を上げるような空間。二人きりと意識した途端に頬が熱を持つ。真冬なのに火鉢が不要なくらい暑い。顔が赤いのを誤魔化すために意味もなく火鉢に近づいて火加減の確認をした。木炭の端の方は真っ白になって静かに灰に姿を変えていった。


「相変わらず綺麗にしてんなぁ」


私の緊張なんかいざ知らず、平助は呑気に声を上げる。大きな瞳はきらきら輝いていた。平助の目はとても綺麗だから、思わず見惚れてしまう。彼の身体の一つ一つですら惹かれてしまうのだ。


これが恋ではなくて一体何なのだろう。心の中で呟いて、慌てて否定した。幕末の人である平助を好きになるなんてありえない。もう一人の自分が首を振る。私は深呼吸を繰り返し、それから笑みを作って座布団を手にした。
火鉢の前に並べて座るよう促せば、平助は笑顔のまま腰を下ろした。

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[bkm]