ただ、そばにいたいだけ | ナノ










手習いが終わると、平助と二人で店の方に顔を出す。
基本的には持ち帰り用の饅頭を売っているんだけど、少しだけその場で食べられるスペースがあって、いつもそこでお茶をする。
中途半端な時刻の為、案の定食事スペースにはお客さんがいなかった。


畳みに腰をおろし、卓袱台を挟んで向かい合う。
八重さんは今来たばかりのお客さん相手に、商品の説明をしていた。
平助は座るなり、ニッと歯を出して笑った。


「もうほとんど読み書き出来るようになったよな。これなら日常生活困らねぇだろ」
「うん。本当にありがとう。平助のお陰だよ」


私が素直にお礼を言えば、平助は照れたように頭を掻いた。
熱心に教えてくれる平助のお陰で、文字もある程度は読めるようになったし、書くことも出来るようになった。感謝してもしきれない。
それが私の本音だ。


幕末の識字率は意外に高い。
寺子屋なんかあったりして、武士でなくても手習いをする機会が与えられたからだ、そうだ。
相当貧しい農村の子供なら解らないけど、京に住んでいるような人たちで識字が出来ない人なんてそうそういない。


しかも私は長崎の貿易商の娘ということにしてある。
それで八重さん達も、まさか私が識字が出来ないとは思わなかったらしい。
平助に字を教わることを告白すると、彼女達は驚いた後に気付かなくてごめんと言ってくれた。
謝らなくてもいいのに、本当に良い人達だ。


貿易商の娘だから、英語は解るし日本語も話せるけど字は知らない。
この時代の貿易商が正直どんなものか解らないけど、苦し紛れにそう言ったら信じて貰えた。
元々貿易商なんていう人は稀で、多分彼らは生涯会うことがない、といったレベルらしい。
騙すのは心苦しいけど、でも助かった。


「はい、おまたせ」


考え事を悶々としていると、後ろから声がして、卓袱台の上に紫色の饅頭が置かれた。
平助はパッと顔を輝かせる。


「うわっ、うまそう!これ、何?」
「紫芋の饅頭だよ。秋の新商品さ。お食べ」
「ありがとうございます!」


破顔させた平助は、勢いよく饅頭を頬張っている。
決して上品ではないけどおいしそうに食べるから、八重さんは平助の食べっぷりを見るのが好きらしい。
そういうところは流石江戸の出身だと思う。


「八重さん、いつもありがとうございます」
「何言ってるの。果穂ちゃんはウチの娘も同然なんだから、気にしなくていいのよ」


当然のように言い放って、八重さんは店頭に戻ってしまった。
視線を戻せば、平助は既に二個目の饅頭に手をつけている。
凄い食べっぷりだなぁ、と微笑んで、私も皿に手を伸ばした。


あの日以来平助のお陰で、漠然とした不安は弱まった。
もちろん、今でも現代に帰りたいという想いは強い。
それでも前のように、ここは私の居場所ではないと卑下する気は起きなかった。
都合の良い話なのかも知れないけど、最近顔が明るくなったと八重さんも言ってくれて、心配させていたんだなぁと実感したんだ。
気づかせてくれたのは平助だ。


平助は饅頭を必死に頬張っていたけど、不意に視線を感じたらしく顔を上げる。
目と目があって、私の心臓は大きく飛び跳ねた。
平助の大きな瞳は真っすぐ私を映している。
何だか恥ずかしくて咄嗟に逸らしたくなったのに、何故だか逸らせない。
私も馬鹿みたいに平助を見つめ返していた。


平助は饅頭を呑みこむと、口を薄く開く。
彼は何かを言おうとした、が。


「あ!平助じゃねぇか!」


後ろの店の方から大きな声がして、弾かれるように振り返った。
そこには身を乗り出すようにしてこちらを指差している男性と、隣で苦笑する男性。
指差している方は筋骨隆々といった感じで、短い散切り頭にバンダナのようなものを巻いている。隣の男性は珍しい赤髪に、人当たりの良さそうな面持ちだ。
彼らは平助を見て、それから私に視線を移した。


「逢引かよ、平助のくせに!」


逢引って、え?
目を見開いた後、私の頬はカッと熱くなった。多分瞬時に赤くなってしまった。
平助はその指摘で我に返ったらしく、音を立てて立ち上がる。


「新八つぁん!何でこんなところにいるんだよ!」
「そりゃ、俺様も饅頭くらい食いたくなるさ」
「嘘つけ、新八。頼まれたんだろ、土か、」
「ああ!ちょっと来て、二人とも!」


赤髪の人が何か言いかけたのを遮って、平助は慌てて二人に駆け寄ると店の隅に連れていく。
何かを耳打ちしているようだ。
なんだろう。三人は相当仲が良いみたいだし、漏らして欲しくないことでもあるのかな。
そういえば、今まで平助の方の事情に深く突っ込まなかったけど、何かの団体のようなものに所属しているのかな。
むくむくと疑問が持ち上がったけど、同時に尋ねない方が良い気もした。
尊王攘夷派にしろ佐幕派にしろ、多分平助は私に何をしているか話したがらない。
それに安易に尋ねてしまったら、この饅頭屋もどちらかに組していると捉えられてしまうかも知れない。
私はお世話になっている最低限、ここの人たちに迷惑をかけてはならない。


打ち合わせは終わったのか、平助は溜め息をつきながらこちらに戻ってくる。
その後ろには満面の笑みを浮かべるバンダナの男性と、八重さんに何か頼んでいるような赤髪の男性。どうやら彼らも席を一緒するらしい。
二人は着席すると、私に好奇の目を向けた。


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[bkm]