薄桜鬼 | ナノ




どれほどの間話していただろうか。数刻にも、たった一瞬にも思えた。身の上話はしなかった。代わりに川で冷やして食べる瓜が格別だとか、メダカを取りにいったことだとか、そんなことばかりを話していた。


でも確かにあの頃とは違うのだと思い知った。彼の声が少し低くなって、背が伸びたこと。昔はこんな風に落ち着いた笑い方をしなかった。
彼は京に行って新選組としてひたすら働いて、私は江戸に残って嫁いだ。私たちを叱った母上様も、私たちの頭を撫でてくれた近藤さんもこの世の人ではない。彼は今や幕府側の重要人物の一人で、私は夫を失った未亡人の出戻りだった。


「そろそろお暇しようかな」


ふと沖田様が切り出した。気づけば空の色が茜に変わり、山の端は紫色に染まっている。どこからか虫の鳴き声も聞こえてきた。夕顔の白が暗くなり始めた空の中、浮いていた。


「お待ちください、沖田様」
「なに?」


踵を返しかけた彼を呼び止める。彼は心底不思議そうな顔をしていた。


「どうしたの、咲さん」
「ご実家には戻られませんか」
「…気づいていましたか」


驚きつつどこか解っていて諦めたように笑う彼に、当たり前ですと言う。案の定、彼は実家の沖田家に立ち寄っていないらしかった。
立場が立場だから気遣ったのか、それともまだ実家に居場所を見出し切れていないのか。いずれにせよ、その決心は堅いのだろう。


「おミツ様に伝言あれば、私からお伝えしますが」
「姉上に、そうですね…。いえ、何も」
「良いのですか」
「はい、構いません。何を言っても言い訳になってしまいそうで、それは嫌だから」
「左様ですか」


何とも彼らしかった。育ての親でもあるミツ様を彼はとても大事にしていた。


「沖田様」
「ん?」
「では、暫しお待ちください」


再び呼び止め、今度は家の中へ駆け込んだ。彼が行ってしまわぬうちに。台所の櫃を開ければ米は十分なほど残っていた。父も私もあまり食欲がある方ではない。それが幸いした。
竹の皮包みにお握りを並べる。三つあれば十分だろう。塩を利かせ、腐食防止のため梅も入れた。隣には胡瓜の漬物を添えた。


庭先に戻れば、彼は柵の内側に入っていた。人目につくからと困ったように笑った彼に、私も笑みを零した。


「これは?」
「お握りです」
「お握り?」
「長旅はお腹が空くでしょう。腹が減っては戦は出来ぬと言いますから」


渡された竹皮包みをしげしげと眺め、やがて沖田様は微笑んだ。


「もしかして、ぼろぼろのお握り?」


意地悪く笑った彼の瞳に、昔の名残を見つけた。幼き日に何度も彼に差し出したお握りはどれも不格好だった。塩気も効きすぎたりなかったりと酷いものだったのに、彼がそれを残したことは一度もなかった。
優しい記憶に自然と穏やかな気持ちになる。不意に胸がいっぱいになったのを隠しながら、私は酷いですと呟いた。


「ぼろぼろとはご挨拶ですね。無いよりましというものです」
「本当ですか?あなたの結ぶお握りはいつも個性的ですけど」
「そんなことはないですよ」
「どうだか」


軽口をたたきながらも沖田様は解っているようだった。もう、お握りが不格好なことはない。私はお握りをきれいに結べるようになっていた。それもとっくの昔に、だった。


月日は残酷に流れていた。けれど何も変わらないものも確かにあった。例えば私を見つめる彼の瞳、笑んだ時に出来る笑窪だったり、雰囲気だったりそういうのは一切変わらなかった。


「咲」


ふと彼が私の名を呼ぶ。昔のままの呼び名に目を見開いた私を、彼は真っ直ぐ見据えた。


「僕には本懐があった。近藤さんの役に立つこと、それが僕の本懐だった」
「…はい、そうですね」
「だけどね、もう一つだけ、夢があったよ」
「夢?」


戸惑うように彼は口籠った。この期に及んで言うか言うまいか迷っているようだった。
やがて彼は意を決したように顔を上げ、そっと微笑んだ。


「あなたを、咲を僕のお嫁さんにすること」


僅かに湿気を含んだ風が頬を撫でて過ぎ去っていく。濃い緑の香りに気圧されそうになる。さわさわと夕顔が触れ合って音を立てていた。


私は彼を見上げた。翡翠色の瞳はどこまでも真っ直ぐで、どこまでも美しかった。私が知っている何よりも綺麗な瞳だった。


「沖田様」
「うん」
「私にも夢がございました。たった一つの、夢」


汗ばんだ手のひらを握りしめ顔を上げる。その瞳だけを見据え続けた。


「沖田の御新造と、そう呼ばれることでした」


強い風が吹いた瞬間、彼の腕が伸びて私を引き寄せる。汗と彼の匂いが混じって鼻をくすぐる。逞しい胸板に顔を埋め、私は背に手を回した。薄手の着物のせいで余計に強く彼を感じる。彼がここにいると、彼に抱きしめられているのだと知る。


「咲」


愛おしそうに私の名を呼び、沖田様はそっと離れた。彼は静かに私を見つめ、それから何も言わずに踵を返した。


「そうちゃん」


駆け出したくなる衝動を堪える。心は満ちていた。たった一瞬の抱擁が私の恋を昇華させた。


「ご武運を」


再び歩き始めた彼の背を、私は黙って見送り続けた。その背が田畑を通り過ぎ豆粒ほど小さくなってやがて見えなくなるまで、私はずっと彼を見ていた。





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