薄桜鬼 | ナノ




柄杓で掬った水を庭に撒くと乾いた地面に吸い込まれていった。濃い影のような水跡があちらこちらについている。日差しが随分強くなった。先日梅雨明けしてすっかり夏になってしまった。手のひらで日よけを作り空を見上げれば、傾いた夕陽で空一面茜色に染まっていた。


緩々と流れていく日常の中で、私は時折彼を思い出した。彼の名は今や江戸にも聞こえている。新選組というのだと、誇らしげに書いてくれた文に記されていた。実家に届いたそれを、珍しく母上様が渡してくださったのだ。その時には嫁いでおり、私は家の人間ではなかったというのに、母上様が文を取っておいてくれたことに驚いた。


あれからまた色々あって、彼の周りは劇的に変化している。社会の情勢の移り変わりと共に、華々しい躍進を遂げたはずの新選組の立場は危うくなった。
母上様が死んでしまって以来口数の減った父上様が、久しぶりに饒舌になって教えてくれた。新選組は鳥羽の戦に負け、大坂を捨て江戸へ逃げ帰っている。心配そうに私を見た父上様の瞳に、内心動揺していた。私はあの人を忘れたことなどなかった。


水を巻き終えたら、次は花に水を与えねば。井戸で汲んだ水は冷たくて火照った手のひらに気持ちよかった。夕顔の花が咲き誇っている。軒は白色に埋め尽くされていた。


「夕顔の花が綺麗ですね」


柵の向こうの人影から声がした。声音は数年前から少しも変わってはいなかった。癖があって心地よい声。久方ぶりに聴いたというのに、耳に馴染むこの声は。顔を上げればそこには笠を被った浪士がいた。背は別れた時より伸びたのかもしれない。それでも知らぬ人とは思えなかった。


「もしかしたら花をまともに見たのは、随分久しぶりかもしれません。最近は忙しなくて見る余裕すらなかった」
「いいえ、あなた様は以前から格別花に関心を寄せられている訳ではありませんでしたよ。そんなことよりも剣術の稽古をと、そればかり」
「手厳しいですね。でも確かにそうかも知れません。咲さんの言うとおりだ」


微笑んだ彼に胸が痛くなる。じんわりと、しかし確実に温かいものが広がっていく感覚。数年経ったせいか彼は大人になっていた。背丈が伸びて顔だちも精悍になった。それでも纏う雰囲気は変わらない。間違いなく彼だ。


「花といえば、桜はもう散ってしまったのかな」
「青葉へと変わりましたよ。夕顔が咲いているような季節ですもの、桜なんてとっくに。沖田様は本当に無頓着ですね」
「だって花なんて食べられるわけじゃないでしょう」
「そんなこと言ってしまったらおしまいですよ。風情はないのですか」
「風情でお腹は満たされないですからね」
「身も蓋もないですね。まったく、あなた様は屁理屈ばかり」
「それはこっちの台詞。咲さんに言われたくないんだけど」


何一つ変わらなくて涙ぐんでしまいそうになる。まるで昨日までも会話していたかのようだった。軽口すら懐かしい。
笠に隠れた翡翠の瞳はすっと細められている。眩しいものを見るような目をして彼は私を見ていた。


「でも、桜が散ってしまったのは本当に残念です。あなたと行く花見はすごく楽しいから」
「丘の上の枝垂れ桜、また見に行きたいですね」
「それは嫌ですよ」
「なぜですか。あなた様も楽しそうにしていたじゃないですか」
「楽しいですよ、その時は。けれどあれ、咲さんの着物が汚れたって、毎回あなたの母上に叱られるんですから」
「叱られるくらいでくじけていては駄目です」
「他人事だと思って。お母上は怖いじゃないですか。嫌だなぁ」
「けれどお花見が楽しいのも確かなのでしょう」
「本当に咲さんは調子が良いですね」
「お互い様です」


こうして話していると昔に戻ったような気がした。共に江戸にいて、時折私が道場を訪ね軽口叩きあったあの頃に。何も知らない無邪気なまま夢を見ていたあの頃に。


「また行きたいですね、花見に」
「ええ、本当に」
「試衛館の皆でした花見、楽しかったなぁ」
「私も混ぜて貰えて嬉しかったのです。皆さんお優しいから」
「僕は少し妬けましたけどね」
「…え?」


顔を上げた私を、沖田様は静かに見つめる。とても優しい瞳だった。


「皆、咲さんの隣に座りたがるんだもの。僕だけが知ってるあなただったのに遠くに行ってしまった気がして、少し嫌だったんです」


落とすように微笑んだ彼に、私も笑みを返した。こうした話を穏やかに出来るようになったのは、いつの頃だろう。目を伏せると水に濡れた夕顔が見えた。


「私もですよ」
「あなたも?」
「私も、道場に入ってからというもの、あなた様を遠く感じることが多くなって寂しかったのです」
「本当に?」
「疑っているのですか、酷い人。…本当ですよ」


風が吹いて目の前の茶色の髪が揺れた。緑の濃い匂いがする。目を細めた私を、沖田様はただじっと見つめていた。


「そうですか」


頷いた彼の声音はどこまでも穏やかだった。それが私は嬉しかった。




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