彼を見送った次の冬に、父上様が決めた人の家に輿入れした。夫となった人は地味で寡黙だがよく働く良い人だった。私にも不器用ながらに優しく、心を動かすような激情はなかったものの穏やかな日々を送った。しかしあまり身体が丈夫でなかった夫は流行り病であっさり逝ってしまい、子どももおらず途方に暮れた私は実家に戻された。
実家に戻った年の春、土方さんが家を訪ねてきた。まだ肌寒い気候の中、彼は後ろで結わえた長い髪を揺らしながら依然と変わらぬ出で立ちでいた。 茶を出して向かい合った私に落とすような笑みを浮かべる。少しだけ苦労が滲んだ面立ちは憂いを含んだせいなのか、記憶よりさらに美しい人に感じた。
「咲、元気そうだな」 「土方さんもお変わりなく、何よりです」
ああ、と頷いて土方さんは目を細めた。纏う雰囲気が変わったようだ。あまり口数の多い人ではなかったけれど、以前はこんなに張りつめた空気ではなかった。土方さんは新選組を統べる副長だそうだから、私には推しはかり得ないものがあるのだろう。 丁寧に一礼をする。労うなんてそんなのは僭越だ。それよりももっと込めたい気持ちがあった。
「池田屋でのご活躍、私も耳にいたしました。本当におめでとうございます」 「ありがとう。認められるにはまだまだだが、ちっとは良い思いをさせてもらってるぜ」 「左様ですか、それは良かった」 「…咲」 「はい?」
顔を上げると、土方さんは先ほどまでの笑みを崩して神妙な面持ちになる。案じているのだと気づくのに少しだけ時間がかかってしまった。 そうか、知ったのだろう。ここに来るまでに試衛館やご実家、その他関係のお家を回って耳にしたのかも知れなかった。 開け放した窓から春風が吹き込む。僅かだが桜の匂いがした。
「お前も大変だったな」 「…いえ」 「御新造様となったお前を見ることはとうとう出来なかったな。それが悔やまれる。旦那さんのこと…その、」 「お気遣い、痛み入ります」
短い付き合いだった夫のことを土方さんはあまり知らないはずだった。彼らが上洛して間もなく嫁入りし、あっという間に死別してしまった。夫との生活は夢だったのではないだろうかと思ってしまうほどだ。 好きだったし愛していた人だから別れは辛かった。その好きな気持ちや愛情は、“彼”に向けたものと種類は違えど穏やかで優しい、確かなものだった。
土方さんは噛みしめるように、ただそうかと呟いた。それだけで十分だった。
庭に植えられた梅が満開だった。紅色の花を暫く見ていた。空気が少し冷たいのに、風は暖かさを孕んでいる。 遠くの方で鳥の囀りがした。青々と広がった空が気持ち良い。
「総司のこと、訊かないのか」
静かな声が空気に溶ける。土方さんは紫色の瞳を細め、見透かすような目で私を見据えていた。 私は再び空を仰いだ。縁側の先に広がる庭の木が揺れ、灰色がかった雲が流れた。花曇りというのだと、聞いたことがあった。春先は曇りの日が多い。そう教えてくれたのは誰だったのだろうか。
「彼は本懐を遂げていますか」
視線を戻すと土方さんは神妙な顔をしていた。やがて彼は真顔のまま、ああと頷く。噛みしめるような肯定だった。
「池田屋の一件を始め、総司は今や新選組に必要不可欠な存在だ。剣術の腕前は無論、隊士達の精神的支柱としてもな」 「では、あのお方は近藤さんのお役に立てているのですね」 「勿論だ」
左様ですか。私は返事をしながら湯呑に手を付けた。僅かに茶葉の切れ端が底に沈んでいる。上品な香りが心地よい。茶葉は余所からの戴きものの良いお茶だった。
「なぁ、咲。お前、京に行きたいのではないか」 「…え?」
驚いて目を見開けば、土方さんは顔を顰めていた。この言葉を口に出すまで時間がかかったと、彼の表情が物語る。不意を突かれ言葉を失くした私は、何も言い返すことが出来なかった。
「本当はすまなかったと思っている」 「土方、さん…」 「総司を京へ連れて行くべきかどうか最後まで迷った。しかし連れて行くことにしたのは、最終的には俺の判断なんだ」 「土方さんの…?」 「そうだ」
土方さんは茶に手を付けないまま、真っ直ぐ私を見た。紫色に捉えられて私も目を逸らせない。
「近藤さんは正直、まだ若い総司を連れていくべきではないと言っていた。それでも俺が推した。総司の実力は俺たちの中でも群を抜いている。名を立てるにはあいつが必要だと、そう言った」 「土方さん…」 「すまねぇな、咲。俺は、お前の気持ちも知っていた」 「え…?」
すまねぇ、と繰り返して土方さんは眉を歪めた。
「見送るのは辛かったはずだ」
相変わらず不器用な人だと、思わず苦笑してしまう。土方さんが言っていることは恐らく本当なんだろう。けれど、それだけが全てではないことも確かだった。あの人は土方さんの言うことを素直に聞いて上洛などという決断を下すような人ではない。例えもし土方さんが猛反対していたとしても行ったはずだ。そういう人だ。
「あのお方は今、望んだ道を歩いているのでしょう。ならば言うことはないではないですか」 「咲…」 「本懐を遂げるは武士の誇り。名を立てるのは武士の務め。それが誠というものです」
彼が幸せならばそれで良い。そこまで立派なことを考えている訳ではなかった。けれど私はあくまで彼の志を曲げるつもりもなかった。彼が後悔せずまっすぐ歩いていられることを願った。
それでもなお、一つだけ我儘を言わせてもらえば。心の中でひとりごちる。私にもたった一つ願いがあった。幼き日よりの、夢だった。 私はそうちゃんのお嫁さんになりたかった。 それが叶わぬのは、とても辛かった。
→
|
|