そうちゃんと離れ離れになるのは二回目だった。一回目はそうちゃんが道場に預けられたとき、そして二回目はまさに今。しかも今度は一回目とは訳が違う。上洛してしまったら簡単に会えない。 私は情勢に明るい訳ではないけれど、京が今不安定だってことくらい知っている。毎日のように斬り合いがあって物騒なんだという噂が飛び交っていた。その京に、そうちゃんは。将軍様の護衛だとか何とか聞いたけれど、正直私の耳には入らなかった。名目なんてどうでも良い。肝心なのは、そうちゃんが行ってしまうということだった。
もちろん行って欲しくなかった。そうちゃんと会えなくなるのはさびしい。それに危険な場所なんだ。そうちゃんが剣術に秀でていることは十分知ってる。そうちゃんは天才だと近藤さんは事あるごとに褒めていた。だけどそれが生き残ることの保障になるのかは解らない。道場の試合とは違う。どのようなきっかけが命を奪うのか知れないのだ。
お宮様の境内は閑散として誰もいなかった。まだ朝早くて陽が登り切っていない。東の空に薄らと光が筋を作っていた。寒くて手を擦り合わせる。指先が悴んで痛い。それでも引き返そうとは思わなかった。
そうちゃんを引き留めたいのは山々だ。私はそればかりを考えていたのだから。だけど引き留めることなんか出来なかった。あの目を、そうちゃんの真っ直ぐな翡翠色の瞳を見てしまったら何も出来なくなる。 彼は決めたのだ。決めてしまったのだ。命がけなのは承知の上で、それでもなお、上洛する道を選んだ。全て近藤さんのお役に立つために。覚悟を決めて平穏を捨てる道を選んだのだ。きっと私がどんなに泣き叫んで引き留めようとも、彼は行くだろう。縋る手を振り切って行ってしまう。そうでなければ彼ではなかった。そうでなければいけない。他人に惑わされて意志を曲げるようではいけない。
お宮様の前で手を合わせ、私は一心不乱に祈った。私に残された道は縋りついてそうちゃんを困らせることではない。ただ、祈ることだった。 そうちゃんが不用意に死にませんように。いつでも笑っていられますように。本懐を遂げられますように。 寒さで漏れる息が白い。鼻に刺すような痛みが走った。それでも止めなかった。私に出来ることはこれだけだ。私がそうちゃんにしてあげられることなんて、これだけなのだから寒さに負けている場合ではない。
「咲?」
どれほど祈った頃だろう。随分長い間手を合わせていた気がする。呼びかけられた声に反応して私は振り返った。そこには目を丸くしたそうちゃんがいた。春先とはいえ朝は冷えるというのに、そうちゃんは相変わらず薄着だった。身体が丈夫な人ではあるけれど、こんなに無頓着では直ぐに風邪をひいてしまうだろう。もう私は傍にいないから口うるさく世話する者がいなくなるというのに。この癖は直してもらわなければ心配で仕方なくなってしまう。
そうちゃんは顔を顰め、それから呆れたように笑う。零すような笑みももうすぐ見られなくなるかと思うと胸が痛い。
「鼻が赤くなってる。いつからこんなところにいたの?まだ冷えるのに」 「それはこっちの台詞だよ、そうちゃん。薄着で出歩くと風邪をひくよ」 「僕は鍛えてるから大丈夫」
悪戯っぽく微笑んだ彼に、大丈夫じゃないでしょう、と言おうとした。けれど言えなかった。昇り始めた太陽の白い光に照らされた彼の顔は、見慣れているはずなのに心の臓を掴んだ。痛いくらいに鼓動が早くなる。いつからこんなに精悍になったのだろう。そうちゃんってこんなにも男の人だったかな。知らない間に変わっていく。世界も何もかも、私の知らないものへと変貌していく。
帰るよ、と無造作に言い放ってそうちゃんは背を向けた。いつの間にか広くなった背に胸が痛い。喉の奥から熱いものがこみ上げる。行かないで、と言いたかった。本日、この人は江戸を立ってしまう。 残った理性で全てを抑えて代わりに震えた手でそうちゃんの着物の裾を掴んだ。
「咲?」 「…そうちゃんは、本懐を遂げに、行くの、でしょう」
振り返らないでと願う。赤くなった目元を見られたくなかった。嗚咽を飲み込んで手に力を込めた。近づいたせいか僅かにそうちゃんの匂いがする。
「上洛して、信じた道を、進むの、でしょ、う」
そうちゃんは黙ったまま立ち尽くす。沈黙が苦しい。やがてそうちゃんは息を軽く吐いて、深く頷いた。
「そうだよ」
私たちの他に誰もいない境内に彼の声だけが響く。癖のある声、大好きな声。小さな頃からこの声だけを追いかけた。
「僕は本懐を遂げる。京で、僕の道を進む」
迷いのない口調だった。安堵する。そうちゃんは決心している。道をただ突き進むだけだと、背中が語っていた。 もう少しだからと自分を叱咤する。絶対に泣いてはいけない。私は武家の端くれだ。武家の娘たるもの、気丈にあれ。そうちゃんを心配させてはいけない。惑わせてはいけない。何一つ曇らせてはいけない。
「ごぶう、んを、ご武運を、お祈りいたします」
肝心な時に限って涙が溢れた。頬を伝わる。唇を噛みしめて着物の裾を手放した。最後に残った矜持で、ご武運を、ともう一度繰り返す。 顔を上げるとそうちゃんと目が合った。心配そうな顔をした彼に、精一杯笑ってみせた。それだけが、私に出来る最後だった。
「きっと本懐を遂げてね」
微笑んだ私に目を丸くし、やがてそうちゃんは力強く頷いた。ありがとう、と囁いて彼は踵を返す。立ち止まることなく遠ざかるその背を私は黙って見送った。そうちゃんは一度も振り返らなかった。 姿が見えなくなると同時に零れ落ちた涙が地面に吸い込まれる。ぽつりぽつりと落ちていく滴を、私は嗚咽を殺しながら眺めていた。
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