薄桜鬼 | ナノ




ひと月も潜伏して密偵をしたのなんて初めてで、随分緊張した。山崎さんは慣れたもので、私を助ける余裕すらあった。野菜売りの振りをして何度も屋敷に出入りして、そこで働く女中と接して情報を得た。たまには山崎さんは縁側の下に潜り込んだりしているようだった。


危険と隣り合わせな日々を潜りぬけ、ようやく屯所に辿りついた時はホッとしてしまった。
家に帰ってきたような、独特の安心感。久しぶりに会う懐かしい顔に笑みが漏れる。
肩が降りたのはあまりに久しかった。


正真正銘疲れていたようで、土方さんへの報告が済むと直ぐに眠ってしまった。ひと月の間、安眠した覚えがなかった。いつ長州藩士が勘付いて襲ってくるかと気が気でなかったのだ。
疲れがそのまま誘導したように、熱を出して寝込んでしまった。ずっと気を張っていたから、糸が切れてしまったようだ。つくづく私は情けない。斎藤さんとは大違いだ。


疲れと熱で眠りが深くて、たまに起きたかと思えば厠に行ったり水を飲むくらいだった。千鶴ちゃんがあれやこれやと世話を焼いてくれたけど食欲は無くて、折角作ってくれた粥の大半を残してしまう始末だった。


その日、目が覚めたのは枕元で物音がしたせいだった。ぼんやり目を開くと視界が曇っている。意識がはっきりしないのはきっと熱のせいだ。何となく頭を動かすと、枕元で影が蠢いた。


「気づいたか」
「さいとう、さん?」


あ、斎藤さんだ。そう思いながらまじまじと彼の顔を眺めた。こんなに正面から向き合ったのは初めてだった。いつもは私が数歩後ろにいて、せいぜい横顔を少し離れたところから眺めるのが関の山だったのだ。
こうして正面から見ても揺らがない人だと感心する。正面から見れば誰しも少しは歪んだ部分があるはずなのに、斎藤さんの面立ちは見事に整っていた。


斎藤さんは珍しく困惑を浮かべて眉を寄せる。少しだけ藍色の瞳が泳いだ。


「そんなに眺めて、如何したのだ」


指摘されてみて、随分不躾に見ていたことに気づく。すみません、と言いながら慌てて目を逸らした。声が枯れていることが恥ずかしい。そもそも寝込んで汗をかいて髪も乱れている姿を斎藤さんに見られるなんて。穴があったら入りたい。
恥ずかしさを隠すために布団をかぶった。目から上だけ布団の隙間から出して、彼の様子をうかがう。
斎藤さんはどうやら昼餉を持ってきてくれたらしく、傍に粥が載った膳を置いていた。ぼんやり粥に目を移した直後、彼は僅かに顔を歪めていた。


「副長命令で、任務にあたっていたそうだな」
「…訊いたのですか」
「本日の幹部会で報告があった。もっとも、あんたは寝込んでいるから山崎一人が説明をしたが」


報告に行った時、そういえば三日後くらいに幹部を集めて話をすると聞いた。それが今日あったということなのだろう。ならば三日も私は寝付いていたということだ。道理で身体がだるい。節々が痛むのも熱はもとより寝過ぎも影響していると思う。
不意に視線を感じて顔を上げた。斎藤さんがじっとこちらを見ていた。それはいつものことなんだけど、今日は何だか雰囲気が違って戸惑う。斎藤さんの瞳には微かな苛立ちがあった。


「随分と危険な任務だったのだな。長州屋敷に出入りしていたそうではないか」
「でも、任務ですから仕方ありません。私だって腐っても隊士なんですから」
「それにしたって、何も咲が向かうことはなかっただろう」
「女性が必要な任務だったんです。女の方が警戒され辛いですから」
「敵地に乗り込むなど危険すぎる。何故副長がそのようなことをお命じになられたのか…」


言いながら、ハッと斎藤さんは息をのむ。自分で零していることが、土方さんへの不満になると気付いたらしかった。真っ青になって絶望を浮かべた彼を見て、私は心底不思議に思った。斎藤さんがこのようなことを口にするのは本当に稀だ。いつもならばこちらが案じてしまうほど、土方さんを信望しているというのに。
罰の悪そうな斎藤さんを見上げ、私は瞬きを繰り返した。


「土方さんも苦渋の決断のようでしたよ。随分気遣っていただきましたし」
「…いや、解っている。副長は気の回るお方だ。思慮深くもある。考えあってあんたを任務に当たらせたことは解っている」


しかし、と斎藤さんは言葉を切った。この先は言うべきか胸にとどめるべきか迷っているようだった。
私は黙って彼の様子を見守った。心臓がどきどき音を立てている。妙にうるさくて耳から離れなくなっていく。一方で斎藤さんの動向一つ一つが手に取るように見えて戸惑う。


「俺は悔しい。あんたが危険な任務をしている時それを知らず、ただ何故稽古を見に来ないのかとそればかりを考えていた」
「……え」


意外な言葉に目を見開く私をおざなりに、斎藤さんは言葉を紡いだ。
彼の頬は心なしか薄ら赤に染まっていた。


「そしてあんたの任務を知ってなお、事もあろうかあんたと夫婦役を演じたのが俺ではなく山崎という事実がその…、悔しい」


何を言っているんだろう。私は幻聴を聴いているのかな。
息を呑んだ私の瞳に映る彼は、本当に私が焦がれた人なのだろうか。


嬉しくて溢れる笑みを噛み殺しながら、次言うべき言葉を探す。
絶対今、熱がある。私の顔は真っ赤なはずだ。確実にそれは風邪のせいではない。


「斎藤、さん」
「…なんだ」
「熱が下がったら、また稽古を見学しても良いですか」


尋ねると斎藤さんは少し目を見開く。だが直ぐに彼は柔らかく微笑んだ。こちらが驚くほど、優しくて綺麗な笑顔だった。


「あんたがおらぬと、俺の調子が狂う」


余裕のないその声は、真っ直ぐ私を射抜いた。





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