「なんにもないね」

   たったひとこと。それだけ告げて、黒子テツヤの横をすり抜けた赤司征十郎。その心に無かったモノを彼は知ら無い。


   この日赤司は帝光中学を卒業後、新天地である京都へ旅立つ日だった。

「明日、僕は東京を発つ。東京駅まで見送りに来てくれないか」

   三年間共に戦った仲間の中で呼び出されたのは、黒子ただ一人だったらしい。黄色、緑色、青色、紫色、桃色。どんなに目を凝らして探しても、それらの色は結局見つからず、溜息ばかりが増えていく。

   ポツリ、慌ただしい人混みに紛れ、赤を待つひとりの影は考えた。赤司と特に親しくもなかった自分がどうして選ばれたのかを。よく将棋をさしていた緑間やふたりで過ごす時間の長い紫原の方が適任としか思えず、考えても考えても少しも理由が分からない。終いには考えても無意味という結論に至る。腑に落ちないことに時間を割いてもしようがないと思えども、黒子は彼を無視する訳にもいかない理由があった。
 
   中学一年三軍在籍時、自己の無力さに失望し、バスケを辞めようとしていた黒子を救ってくれたのは、既に一軍で華々しい活躍していた赤司征十郎だった。平凡以下の力しかない、影の薄いバスケ好き。そんな黒子から唯一無二の才能を見出した赤司のアドバイスは、黒子にとって最後の頼みの綱。どうにか必死によじ登って掴んだ、影の役目。バスケの名門・帝光中学でキセキの世代と讃えられたメンバーと共に、黒子テツヤは“シックスマン”として息を吹き返したのだ。

   バスケが好きで大好きで。黒子にとっては命の大部分を構成するといっても過言ではない。そのスポーツを辞めることは死ぬことと同義。言わば命の恩人である赤司の願いを無下には出来なかった。正直気は進まぬものの、義理堅い黒子は重い足をここまで運んできた。

   難儀なことに、赤色の彼に抱える黒子の思いは純粋な感謝だけではなく、簡単には拭えない複雑な恨みも存在している。人が変わったかのように、チームプレイを放棄し、あまつさえ人の心をひどく傷つける仕打ちをした、あの赤色。バスケを心から楽しみ真剣にプレイする友人の心を犠牲にしてまで、何の為にバスケをしているのか。こんな悪辣なスポーツを強いられるのならば、続ける意味なんて無い。

   バスケ部を辞めて、絶望の束の間、黒いリストバンドと一緒に渡されたのは、友人からの微かな希望。僕のバスケを貫こう、決心して新たな道を歩もうとしていたのに。ここで、最後の関門。

   赤色に纏わる胸苦しさと吐き気を感じる度、黒子はとある呪文を心の中で唱えて、混迷する気持ちを整理していた。

   無無無無無無無無無無無無……

   必死に繰り返して繰り返して、感情をゼロにする。これまで、色々あった。全てをリセットしたい程に、色々、色々。自己の感情コントロールは、万全。約束の時間が近付いて来る度に、波立っていた心が静まり返るのが分かった。

   これで、おわる。

   あの色が一瞬で瞳を奪った時、解放へのカウントダウンがはじまった。モザイクでもかかったかのよう、入り乱れる人間がひどく目障りなのに。一際鮮やかな赤色は、黒子の瞳を否応なしに引きつける。あんな色、本当はどうでもいい。無理やり瞼を閉じても、重だるい足が勝手に動き、彼の元へ自然と向かってゆく身体。

   絶対的な引力に支配されるのも、今日限り。明日からは敵として、この人に逆らって未来を切り開いていくんだ。

   これで、おわり。

   サッサと、お決まりの別れの言葉を吐き出そう。もう、いい、どうでもいい。深く伏せていた瞼をゆっくり挙げれば、色違いの瞳と視線が綺麗にかち合ったその瞬間、

「                        」

   黒子が赤司に告げられた言葉は「なんにもない」で。今更「なんでもある」赤司に言われなくとも、自分で重々理解していることだと、黒子は辟易した。

 「なんにもないのは、僕自身、嫌というほど、よく知っています」

   あの時は何も言葉を返すことが出来ず、雑踏の中を立ち尽くした、不愉快な春のはじまり。

   すれ違いざま、赤司の伏せた長い睫毛だけが、やけに印象的で。あれから黒子は、無意識に睫毛を弄ぶ癖がついた。

   赤色の彼の言葉の真意を知らぬまま、不機嫌な夏が駆け足でやって来る。








×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -