柳に鬼の手 | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

しのぶれど

ある日、ふたりで山の中を歩いていると鎹鴉が文を一通ぽとりと落としてきた。
カァー!と鳴く鴉はそしてひと言、『字ヲ覚エヨ〜』と言ってカカカと笑う。

『アホ〜アホ〜』
「ハァッ!?何だてめぇ!?バカにしやがって!!」

鴉が遠くを飛んだままでいてよかった。私はほっとする。
そうじゃないと怒って飛びかかった伊之助の手が届き、下手をしたら食べられていたかもしれない。
賢い鴉はその危険を察知したのだろう、頭上高くをくるりと飛んで回れば威勢よく鳴いて去って行った。伊之助は空に向かってフガー!と吠えながら地団駄を踏んでいる。

お館様は読み書きのできない伊之助に時折手習い歌や簡単な算術を記した文をよこす時があった。学べよ、という事らしい。
まあ、それは言わば差添をしている私に対する文のようなものだった。何せ教えるのは私なのだ。
やれやれとそれを開くとそこには美しい筆跡で今回は和歌が一首平仮名にて記されている。となりには空欄があるのでここに書き写せ、ということか。
「嘴平さん。お勉強です」
私が紙をひらりと掲げると伊之助は苛立った声でそれを拒否した。

「うるせぇっ!そんなの必要ねぇだろ!!」
「でも必ず役に立つ時が来ますよ」
「ねぇ!そんな時はねぇ!!」
「せめて自分の名前を書けるようになりましょう」
「うるさい!俺は刀を使えりゃあそれでいいっ!」
「ちなみにここに書いてあることはですね…」
「黙れっ!聞こえねえのか!!だま…」
「きみがため、おしからざりし、いのちさへ」

怒声を出し続ける伊之助に、私は紙片に記された和歌の上の句を声に出してみた。
すると何故かぴたりと伊之助の声が止まったので驚いた。しかも…

「…ながくもがなとおもひけるかな」
「あら、ご存知なんですか?」
「…」

彼は下の句を間違うことなく言い当てた。
しかも荒々しく高ぶっていた彼がスン、と落ち着きもする。
百人一首に思い入れでもあるのだろうか??
彼から漂う雰囲気が今は少し柔らかくなっている。

「これがその和歌の平仮名ですよ。見てみませんか?」
そっと伊之助に近づくと、彼は黙って紙片を見下ろした。私がひと言ひと言言葉を指し示せばその指先をじっと見つめる。
でもすぐにぷいと顔を逸らされてしまった。
それでも一時であれ、彼は集中した。
成る程、これは使えるのではないだろうか?



「嘴平さん。さあ、頑張りましょう」
「嫌だと言ってるだろうがああああ!」

私は今、伊之助を無理矢理に座らせその目の前に半紙と筆を置いている。
ちなみに私はその彼の後ろに膝立ちとなり、筆を握らせた手に自分の手を添えていた。
フンガー!と抵抗しようとする伊之助。私はすかさず耳元で囁いた。
「しのぶれど、いろにいでにけり、わがこいは」
「…ッも、ものやおもふとひとのとふまで」
「はい、書きますよ」
そして彼がおとなしくなった所で、添えた手を動かして字をひとつひとつ書いていった。
し、の、ぶ、れ、ど
それでもささやかには対抗されるので、その文字は震えて読み難い。
それでも、彼がその手で字を書いたという事実には満足してもよかろう。

「これ。の≠ヘ伊之助さんの名前にありますね」

踊ってしまっているその字を指し示すと、伊之助はぷい、やはり顔を逸らした。
けれどその前に一瞬だけはの≠フ字を見つめたので、今日はもう一度それを書いて終わろうか。

「もう少し書きましょう」

伊之助の右手に添えた自分の手にまた力を入れると、「クソォ…」、悪態をつきつつも何故か伊之助はさっきより更におとなしくなった。理由はわからない。
加えて、心なしか赤くなった頬のその理由もわからない。

字はさらにぶるぶると踊っている。