ここは、忘れられる世界 | ナノ
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日曜日の診療所は普段のそれとは打って変わって静かだ。
先生は突然に現れた私に苦笑いを浮かべ、けれど嫌な顔ひとつせずにカルテに何かを書き込んでいる。


エースとお昼ごはんを食べて、そして私は彼と話をしている中酷い眩暈に襲われて倒れてしまった。エースはそんな私をすぐにここへと運んでくれたらしい。目が覚めると先生がいて、彼は身を起こした私に温かいお茶をくれた。
「疲労かな?働かせすぎただろうか」
倒れた原因について、困惑した苦笑いを浮かべてそう言う。私は首をふった。のどかな島ののどかな診療所。こちらが申し訳なくなるくらいに、ここでの仕事は落ち着いているし先生もいい人だ。
「君のお友達は外で待つと言っていたよ?」
もう帰ってもいいとそう告げた先生は、エースがいることも教えてくれた。私はそっと呼吸を整える。…何で倒れてしまうくらいの眩暈なんて感じたんだろう。倒れる直前、私の耳にはパタパタという洗濯物が揺れるその音ばかりがうるさく聞こえた。それ以外の音は消えたみたいになっていた。エースはこんな私に驚いただろう。私は先生にお礼を言って、ベッド脇に置かれた靴をそっと履いた。


「もうだいじょうぶなのか?」
「…うん」


診療室から出ると、そのすぐそばにあるソファに座っていたエースが慌てて立ち上がって駆け寄った。「ごめんね」。そう謝る私に、エースはブンブンと首を横に振り私の手をとろうとした。思わず躊躇った。何故?…わからない。エースは一瞬悲しげな顔をしたけれど、すぐに元の顔に戻って伸ばした手をひっこめ、歩き始めた私のすぐ横で同じ歩幅で歩いてくれた。


日曜日の島のメインストリートはにぎやかだ。
顔見知りの人間が何人か声をかけてくれて、他愛もないことを言ってきた。サラちゃん、明日診療所行くからよろしくな!この間教えてくれた酢で作るドリンクを飲んだら調子がいいよありがとう。うちのばあちゃんがサラに会いたがってたから先生と一緒に往診してくれねえか?ああ、向かいの家の子供たちがお前と遊びたがっていたぞ。

エースはそんな人々に笑顔を向けていた。
「好かれてんなぁ」
感心したようにそう言う彼に、私は被りを振った。

「こんなに親しくなったのは最近だよ…。私…最初は怖がられてた」
「お前が?何でだよ」
「…私が半年前ここに来たときに乗ってた船の所為かしらね。海賊船…だったから」
「…白ひげの」
「うん。そう。オヤジさんはずっと私のことは堅気だと言ってくれてたんだけど…」

声に出して昔話をすれば、ここへ来てすぐのことをたくさん思い出した。あの家を買ってくれたオヤジさん。診療所へ私を雇ってくれるように掛け合ってくれたクルー。島の人々はみんな私を恐々と見つめていた。そしてオヤジさんたちはいなくなって私だけが残った。ズキリ…。頭が痛くなった。つい半年前のことなのに…思い出すと記憶にまるでノイズがかかったようになる。「どんな…暮らしだったんだ?」。すると突然エースが小さな声でそう尋ねてきて、私は知らないうちに遠ざかっていた意識に気づいてハッとする。

「ここでの暮らし…知りてぇな」
「…普通だよ」
「俺には普通ってのが…よくわからねぇから」
「…どういう意味?」
「ハハ…。…俺の生活はいつも変わってて……特に最後の方は理解してもらえなかったから…。普通じゃねぇんだろうなと思うんだ」
「…そう」

ここでの暮らしなんて…。私はエースからのまっすぐに乞うような瞳を受けて、帰路につくその道すがら彼にぽつぽつとその事を話してみた。何て事のない、何の起伏もない日常。起きて市場へ行って食事を作って仕事へ行って帰って眠る。最初は中々皆から話しかけてもらえない私だったから、誰かを家に招いたりもなければ、誰かと遊びに行くなんてこともなかった。家と市場と仕事場と…、あとはあの花の咲く泉に通うくらい。エースはその話をずっと黙って聞いていた。一言ももらさないように、耳を澄ませてもいるようだった。つまらないとしか言いようのない話。それを終えて「じゃあ、あなたはここでどんな暮らしをしていたの?」と私は聞いてみた。「え?」。エースは驚いたような顔をした。

「あ、私と会う前の話ね。ここで、何をしてた?実は長くいるんでしょう?」
「…俺はここに来たのは…2度目だ。1度目は…ここに1日しかいなかった。そして今ここに来て1週間経った」
「うそ」

エースのセリフにすぐにそう言い返す。「本当だ」。するとまたすぐにそう言い返された。エースは困りきった顔をしていた。「そんなわけない。…なら、あの花の咲いている場所を見つけられるはずがない」。私がそう言うと、エースは俯いてしまった。「…わかるはずが…ないのに…」。私はもう一度そう呟いた。そして私は歩みを止めて立ちすくんでしまう。


「家へ入らねえのか?」


立ち止まって動かなくなってしまった私に、エースが心配そうな声でそう問いかける。その声はずいぶんと遠くから聞こえるようだった。私は首をふった。今、私の頭の中を支配しているのはあの場所のことばかりだった。森の奥の、入り組んだ場所にある…小さな泉。そこへは…私は…偶然たどり着いた。ここで暮らす島の民すら知らない場所だから…そこへ行けたのは奇跡だった。



「…ちょっと…行くところができた」



私はエースの顔も見ずにそう告げた。「またね」。そう言って彼に背を向ける。
何事か言おうとしたのか、エースの息を吸い込むような音が聞こえたけれど、私はそれに振り返ることもせずに歩調を早めた。



…そして向かった。



森の方角へと。