ここは、忘れられる世界 | ナノ
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その人は、砂浜で枯れ枝を集めて火を熾そうと奮闘していた。

そっと近づくと、彼は私を見上げ哀しそうにも見える眩しい笑みを浮かべる。そしてなかなか火を熾せない彼のために火打石を取り上げた私に対して照れ臭そうにし、そして言った。ありがとう…と。


「不器用なのね」
「…ハハ。そうかもしんねぇな」


彼はまた照れたように笑い、私が打ち付けた石によって熾った火に感心のまなざしを向けた。
枯れ枝を集めた薪の側には葉っぱに乗せた魚が数匹。そしてその側に寝かせてあるのは手作りの釣竿。
彼はこのあたりで暮らしていると言っていた。だからこれは彼の夕食らしかった。

しばらくしてほどよく燃え上がった木々の側に、枝に刺した魚をかざすようにしてその端っこを砂に埋めた彼は、私を見て改めてにっこりと笑った。
あの時と同じ顔だ。
突然私の家に現れて、何事かわからない事を喚き、けれどいなくなって、そして次の日また現れた彼が浮かべた…その時の笑顔と。
彼はその日その顔で唐突に私に言った。友達になろう…と。

彼の事など全く知りもしなかった。だから彼が初めて会ったはずである私の名をきちんと正しく呼び、あの時こうしただろ…とか、ああしただろ…とか、…ましてや…愛し合ってたはずだろ…と、そんな記憶にもない話をまくしたててきた時はこの人は頭のおかしい人なんじゃ…と恐怖を感じた。
けれどそれを語る時の彼の顔があまりに真剣で、私を怖がらそうとか騙そうとかしている顔になど決して見えなくて。だから次の日また現れた彼を突き放して追い出すことができなくて、だから彼の「友達になろう」というその言葉に思わず小さく頷いていた。
自分でもどうして了承したのかわからない。けれど、彼の深い悲しみに彩られた瞳がまっすぐに私を見つめたとき、心の底から彼を悲しませたくない…と。例え彼が私を誰か別の人と間違えているんだとしても、何故だかそう強く感じてしまって、怪しいばかりでしかない彼の提案に思わず頷いていたのだ。
彼は首を縦に振った私に泣き出しそうな笑顔を浮かべ、そして背を向けて去って行こうとした。どこへ?海へ。そこが家?うん、そうすることにした。…そうすることにって?気にしなくていい。彼は私の問いかけに背を向けたままそう言った。
「そういえば、あなたの名前は?」
それを聞いた時だけ、彼は振り向いた。
「エース」
「ふうん」
彼の顔は、涙を堪えたような歪んだ表情をしていた。
そしてその日はそのままここからいなくなった。


その後はいつも通りの変わらない1日が始まった。
私は市場へ行って買い物をする。その時顔見知りの八百屋のおじさんやおばさんと話をして、そして手を振って帰る。買った食材で朝ご飯を作る。お弁当も作る。そして島にある診療所へ行って看護師の仕事をする。一緒に働く先生や他の看護師と話をして笑い合う。そして家へと帰って夕食を作って食べて、そしてお風呂に入って眠るのだ。
変化が起こったのはその次の日。
朝起きて市場へ行くと、エースと名乗ったあの彼がいて、おじさんに親しげに話しかけ野菜を並べるのを手伝っていた。そして私に気づくとにっこりと笑った。「手伝ってもらうことになったんだ」。おじさんは大きな笑顔で彼を見つめながらそう言った。おばさんは若くて力のある働き手がありがたいのか、同じく大きな笑顔を浮かべていた。
エースという人は根は明るく人懐こい性格らしい。
その日からというものの、市場で彼を知る者はどんどんと増え、彼はおじさんの八百屋以外にもいろんなお店を手伝ってあげていたから市場の人間はみんな彼をかわいがっていた。私を見つけると笑ってくれて、そして「もらったから、サラにもおすそ分け」と言って、野菜や果物を手に握らせてくれた。
「これ好きなんだ」
渡してくれた果物のお礼と共にそう言うと、エースは「知ってる」と言った。え?思わず声を上げた私に、彼はいいや…と首を振って黙ってしまった。

お前は変わっていない

そう言われたこともある。
意味が分からないから首をかしげるしかなくて、けれどエースはそんな私を見るたびに「いいんだ…」と小さな声で言って、フフ…と哀しそうに笑んだ。そしてその後誤魔化すように大きな声で市場で働く人たちに声をかけ、彼らと他愛もない話をし始めて今度はちゃんとした笑顔で笑い声をあげていた。
しばらくそんな日々が続いた。

彼は生きる事が楽しいらしい。
出会う人全てに屈託なく笑いかけ、大きな声で話し、そして幸せそうにしている。
だから、そんな彼への最初の恐怖心がいつの間にか消えてしまうのはごく自然で、私は気づけば彼と居る時間が増えて、よく一緒に過ごした。
朝、市場で会って話して別れ、その後仕事が終わったら彼が住むことにしたという砂浜へ赴き彼とまた話をする。不思議な事に、彼との会話は楽しかった。彼は私が好む話題ばかりを語り、そして時折ぎこちない事もあるけれどずっと笑顔を浮かべてくれる。仕事先で嫌なことがあっても彼の笑った顔を見ればなんとなく癒された。話していれば嬉しかった。だから毎日会いたいと思った。時折彼が何故だかおかしな行動を、…例えば高い岩場から飛び降りた際に派手に転び膝を痛めた事に対して一瞬「信じられない!」といった具合の驚き顔を見せてくる事だとか…、そんな逆にこちらのほうが驚いてしまう行動をたまにしてきたけれど、それ以外は普通の人だった。打ち付けて擦りむいて血の滲む膝に「痛い…」と泣きべそを浮かべた顔に私は思わず吹き出した。あたりまえでしょ?と言えば、そうだったなぁ…と彼は小さく笑った。


「焼けた!」


エースは私が貼ってあげた絆創膏のついた足を撫で、そしてじゅうじゅうという音と共に焦げたいい匂いを放ち始めた魚の串を手にしてそう言い、がぶりと一口それにかじりつく。すると嬉しげな顔が一瞬にして困ったような顔になった。


「味…薄ィ」
「塩が足りないんじゃない?」
「…そういうことか…。今度塩買おう…」
「塩持ってないの?!」
「…うん」

私はまた吹き出してしまった。そして言っていた。ごく自然に、だった。



「明日魚を持ってきてくれたら料理してあげる」



エースはその言葉にまた泣きだしそうな顔をした。けれどすぐに眩しげな大きな笑顔を私に向けてくれた。