小さな手で精一杯かき集めた砂の中に、きらりと光る細長いものがあった。
取り出して、沈みかけている太陽にその欠片をかざしてみる。
ガラスの欠片だ。きらきらしていて、オレンジがかっていて、固くて冷たい。
角度を変えて何度も何度も、その破片の向こう側を覗き込もうとした。
ただ眩しい光が、ガタガタした断面を乗り越えておれの目に飛び込んでくる。
その欠片自体に色は無くて、透明で。それでも、小さな手の上でも光さえあればその存在感は眩く強いものに思えた。
…光が無ければ、こいつはどうなってしまうんだろう。
幼いながらに薄暗い考えを抱いたおれを、誰かが呼ぶ。
遠くから段々と近付いてきた声に振り返りながらおれは、そっとその欠片を砂の中へと返した。
夢を見ていた。
いつのことかも最早分からない、遠い遠い海辺での記憶。
海。
そう、海が近い街だったと思う。いつも潮の香りがして、風が強く髪を揺らしていて、意地悪なくらい青い草原が波打ちながら広がっていた。
ぼんやりとしていた意識が少しずつ覚醒する。と、少し呆れたような、だけどおれを酷く安心させてしまう声がすぐ側から降ってきた。
上だ。おれの真上から声がする。
夢の中で聞いた声よりも幾分低い、けれどおれにとってはただひとつの落ち着いた声が、久しく誰にも教えていなかったおれの名を呼ぶ。
本当の名前。おれの、本当のひとつ。
「…わさん、とわさん」
「んー…」
折角浮上した意識も、この心地好さの中ではまた沈んでしまいそうで。それでもまた眠ってしまったらこの声が聞こえなくなってしまう。それは何かやだなぁ、と思いながらおれは重い瞼をゆっくり開けた。
ゆるゆると髪を梳いていたらしい手は、おれの目覚めに気付くと同時にぴたりと止まってしまった。止めないで、もっと撫でていて欲しい。
そんな願望を訴えるように、おれは彼の手に頭を擦りつけた。猫みたいだ、と呆れたような笑い声がやっぱり上から降ってきて、また緩やかにおれの髪を梳いてくれる。
薄っすらと開けた瞼の先には、眩しいオレンジに包まれた彼が居た。下から見上げると彼もおれを見下ろして、わざとらしく溜め息を吐く。
手を、伸ばした。
そして止めた。
何で戸惑ったのかは分からない。けれども何故か、脳がそういう信号を出した。気がする。
ただすごく、そう、言葉では表現できないくらい、きれいだと思ったんだ。
それですごく欲しくなって、堪らなく手に入れたくなって、手の届く距離にあるのを確かめたくて手を伸ばした。
あの日、透明な欠片に対してそうしたように。何の躊躇いも無く気になったものには手を伸ばして掴んでしまえばいいと。そう思ったのに。
それなのに、視界に映った自身の手がとても穢れているような、きれいなものに触ってはいけないような気がして一瞬手を引っ込めてしまった。
触れたいのに、触れられない。触れていいのか分からない。
幼いころのままの無邪気さを持っていたならばこの手は真っ直ぐ彼へと伸ばされただろうに、どうして今になって。
…おかしいな。
そんな逡巡は数秒にも満たなかったはずなのに彼は心を読んだみたいにおれの手を取った。
頭を撫でていたのとは違う方の手で、何の躊躇も無くおれの手を取って自身の頬を擦り寄せた。細められる目を縁取る睫毛が僅かに揺れた気がする。
少しだけ開けた窓からは夕方の風が入り込んで来ているようだったけれど、風のせいだけで睫毛って揺れるものだろうか。
眩しい。
何だか神々しい存在が、穢れを落としてくれているみたいだな。なんてそんな馬鹿げた考えを抱きながら、手の平の温度に感じ入りながら。
おれがぼうっとその光景に見惚れていると、ふいに彼がおれを見た。ぞわりと、背中が粟立つ。
それから手の平に柔らかい何かが触れる。頬じゃない。鼻先でも、髪でもない。
唇だ。
背中から眩しい光を受ける彼は目を閉じて、壊れ物でも扱うかのようにそうっと、本当にそうっとおれの手の平に口付けた。
どくんとおれの身体はびっくりしているのに、声が出せない。
ただ見惚れることしか出来なかった。
こんなことするんだとか、何でそんなに嬉しそうなのとか、そろそろ膝も痺れてきたっていう抗議の意味だろうか…とか。
色々支離滅裂な言葉たちが浮かび上がるけれど、彼は何も言わない。
何も言わずに、きっとまあるく見開かれているだろうおれの瞳をじっと見ていた。吸い込まれそうっていうけど、本当に吸い込まれてしまったらどうなるのだろう。
彼の中に取り込まれるのだろうか。彼の一部になれるのだろうか。もうずっと、離れることもなく。
いいやダメだ、穢してしまう。
誰かが言う。だけどそんな考えさえも馬鹿馬鹿しく思えるほどに目の前の光景は神秘的で、美しくて、尊くて、眩しいものだった。
あの日感じた眩しさとはまるで違う、神々しいのにすぐそこにある光。触れてもいいと言ってくれた気がする。
そもそも触れちゃいけないって言っていたのは誰だったのだろう。
あぁ、もうどうでもいいや。こんなにもきれいなのだから。
…きれいだなぁ。本当に、涙が出そうなほど。
そう思っていると。
視界が急にぼやけてしまった。何だろう、折角の光景がはっきり見えない。水中にいるみたいに、ぼんやりと光の輪郭がぼける。
ぱちりと一度瞬きをすると、目尻を何か生温かいものが流れていった。あぁ良かった、やっとまた見えた。
なのに、さっきまで穏やかに微笑んでいた表情は一変して。彼はちょっと前のおれみたいに目を真ん丸く見開いて、髪を撫でる手を止めてしまった。
「…なんで」
「…え」
「い、や…なんでも、ないです」
「………」
「………」
「ティッシュ、ないんだ」
「へ?」
「あるにはあるんだけど、多分。でもどこにあるか分かんないんだよね」
「そりゃあ、こんだけ散らかっていれば…」
「ハンカチもないんだ」
「はあ…」
じいっと困惑する顔を見上げていると、彼はまた一つ大きな溜め息を吐いた。しょうがないひとだとでも言いたげな表情だ。
笑ってしまいそうになるのを何とか堪えて、彼が動いてくれるまでただじいっとその顔を見上げ続ける。
数秒後、観念した彼が漸く諦めたように目を閉じて、ゆっくり開けた。そうして開けた瞼をまたゆっくりと閉じながら顔を近付けてくる。
息がかかる。おれも擽ったくてつい、瞼を閉じてしまう。
身動ぎしてしまいそうな熱い息をすぐそこに感じる。その数瞬後、さっき流れ落ちた雫の跡を温かい彼の舌がなぞった。
一筋だったけれど、しょっぱかったんじゃないかなと思う。
近付いてきた時とは違ってパッと素早く顔を離した彼は、耳まで赤く染めていた。そっぽを向いてこちらと目線を合わせようとしてくれないし、掴んでいた手もいつの間にか離されてしまった。
それでもおれは大満足である。ふふっと息を漏らして笑うと、じとりと潤んだままの榛色がおれを見下ろした。
「ふっ、どしたの?もう終わり?」
「今思ったんですけど、袖で拭けよ…」
「おれ何も言ってないよ?りょうくんが自主的にやってくれたんじゃん」
「魔が差しました。というか、いい加減膝が限界です。退け変態」
「交代する?」
「しない」
「もったいない。きもちーよ、おれの膝枕。知らないけど」
「知らないものを勧めないでください…全く」
何でこんなにすぐ部屋を散らかすんだ、という小言を放ちながら彼はポスポスとおれの肩を叩いた。
その表情と仕草がおもしろすぎて笑ってしまう。本当に彼はどこまでも優しい。怖いくらいに、優し過ぎる。
「きれいだったんだ」
「は?」
「きれいすぎて、どうしたらいいか分からなくなって、気が付いたら、何か泣いてた」
「………はあ」
解せないという顔もおもしろい。こてんと首を傾げる彼はおれの言葉を一生懸命に咀嚼してくれているようだ。
分からないならそのままで放っておけばいいのに彼はそれをしない。それが自身にとって痛いものでも苦いものであっても、相手の為に受け入れようとしてしまうその優しさがおれにはとても心地好くて、とても怖い。
踏み込んでこない優しさ。一歩ずつ近付いてくれる優しさ。痛みを吸い取るように包み込んで閉じ込めてしまう優しさ。
おれは彼のそんなところがとても好きで、好きという言葉が適切かも分からないくらい愛おしくて、そして堪らなく心配なのだ。
だから守りたいと思う。守られていることに心地好さを感じるだけじゃなくて、何もかもを。
どうしたらそれが叶うのか答えがパッと分かればどれだけいいだろうな。何度も何度も考えたよ。
「聞いてくれなそうだったから、答えたんだよ」
「俺、なんでって言ったじゃないすか」
「あれは独り言みたいなものだろう?」
「…まぁ、いや、というか、どうでもいいですし」
「そう?ホント?」
「………」
「最近ウソ吐くのが下手になってきてるよ、かわいいなぁ」
「そっちは甘えるのが上手になってきましたね、かわいくないなぁ」
何度も何度も考えたけど、最適解は未だ出ない。
でもこうして、言葉を交わして探り合うのは嫌いじゃない。寧ろ好きだ。この上なく好きな時間のひとつだ。
「今度はおれが膝枕してあげるね」
「や、マジでいいですいらないです」
「じゃあこう言おう。膝枕させてください」
「お断りします」
「お断りをお断りします」
「めんどくせぇな」
「絶対癖になるよ。いやしてみせる」
「その熱意を部屋の掃除に…まぁいいや」
「りょうくん」
「何ですか、とわさん」
「いや…きれいだよ」
「疲れ目ですねぇ」
「ホントだよ、すごくきれいなんだ」
「………そうですか」
そうなんですよ。
あの日拾ったガラスの欠片は、砂の中に置いてきてしまった。
ただきれいだなと何となく思っただけで、それ以上欲しいとも何とも思わなかったのに。もったいないことをしたのだろうか。
でもまぁいいか。
諦めたように頬を赤らめたままの彼はまた目を合わせてくれなくなってしまった。
今度こそそっと手を伸ばす。躊躇いなく頬に指を滑らせて、やや熱いその滑らかな感触を楽しんだ。そのまま後頭部に手を滑り込ませてくいと顔を近づける。
やっぱり柔らかい。でも今度はきっとしょっぱくはないだろうなぁ。
光をなくした欠片はどうなるのだろう。
曇天の中でも同じようにあのガラスを見つけられる自信はおれにはなかった。
眩しい、きれい、怖い。でも、欲しい。
たくさんの感情をもたらしてくれるこの宝物を、おれはもう手放せない。
穢してしまうことを恐れても、柔らかな心に傷を付けるようなことがあったとしても、曇天でも大雨でも快晴でも。
ごめんねと、心の中だけで呟いた。
あの日とはまた違う薄暗い考えを抱きながら、うなじにすうっと指を滑らせる。
ピクリと反応した身体を遠慮なく腕の中に包み込んでしまえばまた、おれは酷く安心した。
潮の香りよりもずっと好きな匂いがすぐそこにある。
この手の中に、ある。
「きみは…」
「なんですか」
「結構、趣味悪いよなぁ…」
「日々まさに痛感してますが、なにか。アンタもでしょう、お互い様ですよ」
「おれはいいんだよ、とてつもなく良い趣味してると自分でも思うもん」
「………そうすか」
「そうです」
行合いの空から舞い込んできた風が部屋のカーテンを揺らす。
そうしておれたちの髪を緩やかに撫でては楽しそうに去ってゆく。
再びくいと近付けると、視界いっぱいに映る眩さ。
榛を縁取る睫毛が揺れたのはきっと、今度は風のせいではないはずだ。
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