今日は来客の予定は無いらしい。
とは言え予約無しの来訪の可能性もあるからと、透羽さんはまた少し変装をして「タカハシさん」モードになっている。
黒髪黒目の青年姿。
顔立ちは透羽さんそのものなのでこれでも結構目立つと思うんだけど、お客さんが来たらもうちょっと弄るんだろうか。
一番ラフな変装姿だと思ってた青年の姿でも、本当の透羽さんとはやはり少し顔立ちが違っていたもんな。
あの時はメイクでもしてたのか、本来の透羽さんの方が鼻筋が通っていて二重の瞳がぱっちりしている。睫毛の長さも自前だったようで、横から見ると尚その長さが分かる。一回爪楊枝乗せてみたいんだけど乗るかな。乗るよなあの長さじゃ。
今度やってみよう。
まぁこんな感じで、本当の本当に事務所を閉める時や完全にプライベートの時以外彼は本来の姿を隠してしまう。
それについては別に何とも思っていない。
仕事が絡む時以外を除いて、俺の前では基本的に彼は彼のまま居てくれるから。
それでも何故仕事中は「タカハシさん」を貫き通すのか。
一度だけ理由を訊いてみたことがあるが、やはり探偵という職業にも色々あるらしい。あまりに目立ち過ぎると業務に支障が出ることもあること、彼自身今のようなちょっとラフな変装姿であっても元顧客に執拗に交際を迫られたことがあるらしいことなどを聞いて納得した。
このバイトを始める時に危ないことはほとんど無いって言っていたけど、やっぱりそれは彼の経験による対処方法や回避能力によるところもあるらしい。
いっつも飄々としてると思っていたけど、この人なりに色々経験して色々考えていたんだな。
「あとこんだけー。よろしくぅ」
「はい」
…黒い。
カツラかな。なのにさらさらしてそう。
睫毛だって、髪と同じ色素のないものだったのに今は違うし、どうしてるんだろう。
マスカラ?にしても器用だなぁ。
「…きみは分かりやすいなぁ」
「はい?」
「初めは表情変わんないなって思ってたけど、慣れてくるとめちゃくちゃおもしろいね」
おもしろいって…。
俺はただこの人の変装について観察してただけなんだけど、何かおかしな表情でもしてしまっていたのだろうか。
「そんなカオに出てましたか」
「そりゃあもう、おれに対する好き好きオーラが」
「は?」
「え、ここそんなキレられるトコ?逆に照れてる?まさか、ツンを通り越してのキレデレ…?」
「聞いたことない単語なんですが。というか、変な言いがかりしてる暇あるなら仕事してください」
「助手の当たりが強くてヤル気がなくなったので今日はもう閉店します」
「まだ依頼人に渡す報告書残ってんでしょうが」
「褒めてくれたらヤル気出る」
「普通にやれ」
全くだらしのない…。
バイトの俺の方がまだ仕事してる気がしてしまう。
「もう今日は鍵閉める。来客オコトワリ」
「はぁ…」
本当にこの人は気分屋だなぁ。
別にもう夕方だし、新規のお客さんも来ないと思うけど。
俺が小さく溜め息を吐いている隙に、ガチャリと音を立てて本当に鍵を閉め、入り口の看板も「closed」に裏返してきたタカハシさんが部屋に帰ってきた。
ちなみに俺たちが雑務仕事をしているのは応接室の奥の部屋。彼の仕事場兼居住スペースである部屋だ。
応接室から続くドアを開き、覇気の無い顔で帰ってきた彼は何を言うでもなくガサゴソと音を立てて何かしているようだった。
俺はというと目の前の雑用に集中していたので、音だけでその様子を拾っていた。
暫くして音が止んだと思っていたら、ふと視界の端に影が落ちる。見上げると、そこにはいつもの彼が居た。
「タカハシさん」を脱ぎ捨てた透羽さんだ。
俺にとっては別に珍しくもなくなったというのに、不意にその姿を見つけて俺は思わず声に出してしまった。
「あ、とわさんだ」
「そうだよ、とわさんだよ」
「本当にもう仕事しないんですか」
「だから褒めてくれたらやるってばぁ」
ポスンッとさして柔らかくもないソファーに腰掛けると、彼はうーんと唸りながら伸びをした。長い腕がピンと張る様子を視界の端で捉えた後、俺は全身に来た軽い衝撃に驚くこともなくまた溜め息を吐いた。
「ねぇぎゅってしてい?」
「もうしてるじゃないですか」
「充電充電ー」
「もう充分なのでは」
「いいやまだまだ。まだ20%くらい」
「切れかけじゃねぇか」
「おれ、りょうくんの素が出ると段々口が悪くなるトコ好き」
「…いいから仕事しろよぉ」
「もうちょい。あーすげぇ落ち着く匂い…」
「犬か」
「わん」
「…はぁ」
壁にかかる時計をぼうっと見つめる。
一分くらい好きにさせて、それからパシッと紙の束で真っ白い頭を叩いた。
「いてっ」とちょっとだけ透羽さんが唸るが、その声にはどこか楽しそうな色が滲んでいる。
離れゆく体温をどこか名残惜しく思いながら、俺は努めて平静に語りかけてみた。
「今何%ですか」
「ダメージを受けたので、そうだなぁ…。15%くらいですかね」
「めちゃくちゃ減ってるじゃないすか」
「だから、充電、」
言い終わる前に口に四角い塊を放り込んでやる。甘く手の体温でも簡単に溶けてしまうそれは、チョコレートだ。
このひとの必需品のひとつ。
「…あま」
「今何%?」
「…ひみつ」
「そうですか」
少し不満そうに眉を潜めた透羽さんを尻目に、俺が再び残りの仕事を片付けようとした時。コンコンと、表の扉をノックする音が聞こえた。
「誰か居ませんか?…やっぱりもう閉まっちゃったのかな」
割と大きめな独り言は段々と尻すぼみになっていき、やがて落胆の溜め息が聞こえた気がした。
どうするのかと俺が隣を見遣るとそこにはもう透羽さんの姿はなくて、黒髪黒目の少し目付きの悪い青年が立っていた。「タカハシさん」だ。
「今日はもう閉店」って言っていた癖に、結局お客さんが来ると対応するんだなぁ。
優しいのか、単に生活のためなのかよく分からないけれど。
「まだ充電足りないんどけどなぁ…。あとでご褒美よろしく」
応接室へ続く扉を開ける寸前に振り返り、「タカハシさん」はそう言い放つと颯爽と出て行った。俺もお茶の用意をしなければ。
それにしても、ちゃんと「closed」にしてるのにわざわざノックするなんて、ちょっと非常識なのでは?と苛立ちもしたのは確かだが、あの落胆具合からするに結構困っていたり、急ぎの用事だったりするのかも知れない。
そういうのも、「タカハシさん」はお見通しなのかな。
言われたご褒美とやらをどうすればいいのか全然分からないがとりあえず、俺もソファーから立ち上がる。
あぁ見えて頑張り過ぎるあのひとに、今度こそ十分な充電をさせてやろうとひっそり思いながら、俺はまたチョコレートを一つポケットに突っ込んだ。
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