学校鞄を肩に掛けて、あの公園を通り過ぎる。
少し人通りの多い道路をちょっと歩いてから、駅近くのスーパーで適当に安い野菜などを見繕って自宅の冷蔵庫の中身を思い出す。
晩ご飯、何にしようか。あれはあった、あれは無かったかもしれない。それからあれと、あれと…。
うん、これでいいか。
今日は特に予約のお客さんもいなかった筈だし、仕事自体は早めに切り上げられるだろう。
あそこは料理できる場所が無いからそのまま僕の家までってことになるかも知れない。
母さんは遅くに帰ってくるみたいだから残りは冷蔵庫に入れておいて、あぁ、多めに作ってタッパーに入れてあの人に持たせるのもアリだな。
買った野菜は少しだけ。
それから業務用かと思うくらい大きな袋に入った大量のチョコレート。
不摂生だなぁと思うから控えては欲しいんだけど、あの人はどうやら結構な甘党らしくて。
甘党、というか…。甘いものをよく食べるし、仕事が一段落したと思ったらやたらと寝る。うん、とにかくめちゃくちゃ寝る。
頭を使う人は甘いものを欲しがるとかロングスリーパーは働かせ過ぎて疲れた脳を休めているのだとか、嘘か本当かまるで分からないネットの情報を思い出した。
そう言えばあの映画の天才も常に甘いものを口にしていたっけな。目の下にはいつもクマがあったからロングスリーパーかは分からないけれど。
あの人ああ見えて頭の回転は速いし、そんな嘘くさい情報にも一理あるのかな。どうなんだろ。
でもとにかく彼はよく眠るのだ。
一度事務所が休みの日に食べ物を持ってあの人のところを連絡もせずに訪ねたら、昼過ぎだというのに眠ったままで。
合鍵を使って部屋に入ると、普段は折り畳まれているソファーを広げて長い手足を零れさせながら、色素の薄い肌を無防備に晒して眠る姿があった。
厚い雲の隙間から差し込む柔らかな日差しが窓からちらちら覗いていて色の無い色を輝かせる。
近くでようく見ると睫毛まで髪と同じ色なんだなぁと思っていたら、その睫毛が僅かに揺れて、垂れていた手が急に動いて。
不意に手首を掴んで毛布に引っ張り込まれた時は驚いた。うん。あれは本当に、吃驚した。
それなのにあの人は、起きたら自分の方が吃驚したという顔をしていて、ちょこっとだけイラッとしてしまったのを覚えている。
それが起きるまでそうっとしておいてあげようと抱き枕に徹していた健気な助手に対する態度か。全く本当に、まだまだあの人は掴めないところがたくさんだ。
ぼんやりしながら歩いていると、もうすっかり通い慣れた路地に来ていた。
一階はまだテナント募集中の大きな文字。折角だからお洒落な喫茶店でも入ればいいのに。
そう思いながら二階へと続く急な階段を上がり、扉に掛けられている看板を見た。あぁ、今日は起きてるなこれ。
まぁ一応営業時間中だから起きていて当然といえば当然なのだけれど、何せさっきまで寝ている姿ばかり思い出していたからなぁ…。
キィッと少しだけ立て付けの悪い音を立てて開いた扉の先にあの人の姿はなかった。
応接室はきちんと整頓されていて、今日は俺が掃除しなくても大丈夫そう。まぁお客さんが来なかったのなら片付けるものも無くて当然かな。
そうして奥の部屋へと続く扉に視線を移す前に、ガタガタという音と少し乱暴に扉が開かれる音がした。
振り返ると視界は真っ暗。玄関のドアは勝手に閉まって、ガチャンと音を響かせた。
もうすっかり嗅ぎ慣れた匂いが肺をいっぱいにする。肩に掛けた鞄を下ろす間もないまま、ぎゅうっと腰に手が回されて、もう片方の手ではわしゃわしゃと後頭部を撫で回された。
迎えに来なかったと思ったら今日はこのパターンか…。
ふうっと溜め息を隠しもしないで背中に腕を回し返した。この人はというと、相変わらず俺の髪を撫で回している。というか気のせいか、何か匂いを嗅いでないか?
耳朶のすぐそこでちょっとだけ空気が揺れるのを感じて、背中がピクリと反応してしまった…。
「お疲れ様です。事務仕事終わったんですか」
「………終わっ…た。…大体」
何だその間は。でもまぁ、お疲れなんだろうな。
何も言わなければずうっと抱き締められていそうな身体をちょっと押し退けて、顔を覗き込む。
目の下にクマはないけど髪がまたあちらこちらに跳ねていて、着ている服も襟がゆるゆるだった。部屋着のまんまじゃないか。
「はぁ…。透羽さん、一応営業中だっていうのにその格好はどうなんですか」
「今日は予約無いからだいじょーぶ。多分」
「多分」
「まぁ、もし来客あっても秒で着替えるから」
この人ならやりかねない。というかもしかしなくても、俺が居ない間は今までこんな感じでやっていたのかもなぁ…。
分かんないけど。
「仕事が終わったってことは、今日俺がやることもないってことですね」
「ある」
「え、もしかしてまた部屋汚して」
「いや、まぁそれもあるけどそれはあとで。きみには重要な任務があります」
「重要な任務」
「まぁまぁこっちにおいで。あ、チョコレートじゃん!天才!さっすがおれの助手だよー!!」
「何かテンション上がってきてませんか」
「そりゃあもう、りょうくんが来てくれたから!」
はぁ。俺に向けられるこの満面の笑みは、営業用じゃない素顔。実はこのカオが結構好きだなんて言ったらまた調子に乗るんだろうなぁ。
手を引かれて彼の生活している部屋へと連れて行かれる。やっぱさっきまで寝てたのかな、毛布がぐちゃぐちゃだ。いや、あれはいつもか。
窓が少し開かれているものの、透羽さんの匂いでいっぱいだ。それがやけに安心するだなんて、こんなこと考えちゃうだなんて。
…これじゃあさっき俺の匂いを遠慮無く嗅ぎまくってたこの人を咎められない。
「で、俺の重要な任務と、はっ?!」
「これでーす」
言い終わる前にポスッと手を引かれて彼のソファーに座らされた。正確には、彼の膝の上に、だけど。
横抱きみたいにして俺を抱え込む透羽さんは俺の持っていたスーパーの袋から断りも無しにチョコレートの袋を引っ張り出すと、丁寧に開いて一つ取り出した。
確認を取るみたいにちらりとこちらを見る覗き色。その一等好きな輝きに抗える訳もない俺はもうとっくにこの人の手の中だ。くそう、悔しい。
「どうぞ」と俺が頷いてみせると、彼は嬉々として小さな包みを破って開いた。
四角いチョコを半分口に入れて、味わうようにもぐもぐと舌を動かして。それから何か悪戯を思い付いたかのように膝に抱え込んだままの俺を見つめる彼の目は嫌味なくらいに美しい。
嫌な予感がする。俺は学校鞄を前に翳して距離を空けようと試みるも、あっさり鞄は奪われてソファーの端に置かれた。
ぐいと寄せられた肩に意識を向けるその前に唇に少し固い感触を受け取る。
さらりと細い銀糸が頬を擽って、油断して開いた口には俺の熱で溶けた甘いチョコレートの味が広がっていった。
半分は透羽さんが、もう半分は俺が。
それ程大きくもない一粒のチョコを分け合ってついには唇同士がぶつかって、固かったチョコレートとはまた違う甘さと温度が口いっぱいに広がっていく。
一瞬の出来事で目を開けたままだったのに互いの顔が近過ぎてぼやけてしまって、結局根負けして目を閉じた。
暫くして、ふふっと嬉しそうな声に釣られてそうっと目を開けるとほうらやっぱり。
悪戯が成功したみたいなあどけない顔をした馬鹿がそこに居た。馬鹿でいいよもう、いっつもいきなりこんなコトしてくるんだから。
「…馬鹿」
「ふっ、ふふ、顔あっか、いてっ!」
「なぁにが重要な任務だこの変態っ!このチョコはこうやって食べるもんじゃないでしょ!」
「重要ですぅー。こうやって糖分とりょうくんを両方補給出来るというおれの画期的な、」
「もう今日の晩ご飯作ってやんない」
「それは困る。でもやめない」
「なんて野郎だ…」
「ふふっ、おれねぇ、そうやってりょうくんが段々口が悪くなるトコもすきだよ」
「誰の所為ですか」
「あとね、何だかんだ言って結局おれに甘いのも知ってる。さてさて、今日のご飯はなんだろう」
これは…甘やかし過ぎただろうか。結局バレてるじゃん、俺の性格。
どうこう言っても結局この人の腕からは退こうとしないし、チョコだって買ってきてしまった上に晩ご飯も作るんだろうな。
何でこんなに嬉しそうなのかもよく分かんないけど、このカオが好きだなぁって思っちゃったからなぁ。
うん、悔しい。
口の中に広がる甘さはこのひとには丁度良いのかもしんないけど、俺には甘過ぎる。
背中の温度もその視線も、この空気も。
甘過ぎるから、もうちょっと小出しにして欲しいかな。
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