一人がよかった。
一人でよかった。
煩わしい喧騒も面倒な中身の無い会話も、他人からの無遠慮な詮索も甘ったるい香水の匂いも何も無い。
世界にまるでたったひとり残されたみたいな一人だけの時間に煙たいモノは何も無くてただ、キレイとは言えないごった返した光景と食べるのも億劫になったコンビニの残り飯があって。
どうでもいい。そう何度も何度も重ねてきた薄い膜の下に眠るあいつはどんなカオをしてただろう。
一人は静かで、自由で、面倒なことが何も無くて、ただ、本当に静かだった。
主観的な視界に映るのはおれの身体だけ。鏡を見なければ誰の表情も映らない。
本当に楽だった。そしてとても、寂しかった。
一人が好きなワケじゃない。そう知っていながらもわざと孤立するような道を選んでいたのは紛れも無い自分自身で、いつしか自分がどこに居るのか、どこへ向かっていたのかも分からなくなってしまったんだ。
そうだよ、おれは別に独りが好きなワケじゃない。孤独が好きなワケないじゃないか。
誰かと他愛も無い話をして、既製品ではないご飯を一緒に食べて、テレビを観て同じところで笑い合ったりなんかして。
性別も容姿も気にしない、ただ空気みたいに互いを支える存在。かけがえのないたったひとつ。
生まれ落ちたというだけで無償に与えられる愛情が欲しいだけの赤子。身体だけはまるで大人のように成長してしまったけれど、「どうでもいい」の下に隠された湖の底にはそんな幼くも切実な渇望が沈んでいた。
だから、さ。
そういうことを考える度に本当はきみじゃなくても良かったんじゃないかとか、そんなことを思ってしまうんだ。
たまたまおれを見つけてくれたのがきみだったから、おれはきみに手を伸ばした。
世界でただ一人おれを認めてくれたきみに手を伸ばしたんだ。
だけどもし違っていたら?おれは別の誰かを求めていたのだろうか。
きみにとって、おれじゃなきゃいけない理由って何だろう。
おれにとって、きみじゃないといけない理由って何なんだろう。
「ねぇ、」
「何ですか透羽さん。仕事、終わったんですか」
てきぱきと山積みの書類を棚に戻していく彼の背を眺めながら、おれは溢れ出るままに音を言葉にした。
意味を持った言の葉はすぐにきみの鼓膜へ届いて、その身体に染み渡っていくのだろう。
「凛陽くんは、どうしておれを見つけられたの」
「………何でって」
此方を振り返った榛色は、汚れた窓から差し込む柔い陽光にも簡単に反射してただおれを見つめ返す。
何を考えているんだろう。
今更こんな質問をするおれを愚かだと思うだろうか。それとも真剣に理由を考えてくれているのだろうか。
彼は瞳で判るのだと言った。強いて言えば、らしいけど。
それでもおれが投げた質問はそういう事を訊いているのではないと、もっと本質的でおれにとって都合の良い答えを期待しているのだと、聡い彼はきっとすぐに気付いてしまうだろう。
例え偶然でもいい。決められた運命だったとしても、本当にただの偶然だったとしても、結果こうして触れられる距離に彼という光が下りてきてくれたことは変わらないから。
なのに幼い傲慢なおれは彼にまた甘えてしまう。優しくて甘い彼に、こうして欲しい言葉を求めてしまう。
「………」
「うーん…」
困らせてるかな。顎に手を当てて答えを絞り出そうとしている姿は真剣で、すぐにでも抱き締めたくなってしまう。
ごめんね。
だけど欲しい。
暖かい場所でそよ風を感じて居眠りするみたいな心地好さを、もう知ってしまったから。
誰かが作ってくれた手料理の美味しさも独りじゃない食卓も、何気無いことで笑い合う時間さえ。
湖の一番底に沈めていたものをまた引き摺り出してしまったから。
「透羽さん」
「答え、わかった?」
「わかりません」
「えぇ」
「すいません。でも、」
柔らかな色が近付く。ぼうっと見惚れていると不意に視界が暗く翳って、柔軟剤みたいな優しい香りと彼自身の匂いが一緒になっておれを包んだ。
ソファーベッドの上に膝を抱えるようにして座り込んでいたおれを、彼が、凛陽くんが抱き込んだのだ。
彼からの接触なんて中々無いので内心少しそわそわしてしまって、落ち着くのに落ち着かなくなって、だけど離れて欲しくなくて。
すぐに手を伸ばして抱き寄せ返した背中の何て細いことだろう。おれも人のことは言えないけれど。
おれより幾分細い、なのにやけに逞しく感じる背中の温度を手の平で味わいながら、耳元で彼が言葉の続きを話してくれた。
「アンタが何を言って欲しいのか何となく分かっちゃったんですけど。でも、上手く言えなくて」
これじゃダメですか、って少し顔を離して困ったように笑うあどけない彼。おれの言葉の裏を読んで悩んで、出してくれた答えの表し方。
言葉じゃない言葉。彼だけの表現の仕方。これも、うん、正解といえば正解かな。
でも。
「ダメ」
「やっぱダメでしたか」
「うん。おれがどんどんダメになる」
「これ以上どうダメになるっていうんですか」
「りょうくんが甘やかすから、これ以上もっともっと欲しくなる」
「甘やかしてますか、コレ」
「ちょっとね。もっとくれてもいいけど」
「いや、今はこれで勘弁してください」
いつの間にやら彼もソファーベッドの上に乗り込んで、お互いに正面から抱き込むみたいな形になっていた。
彼が掃除してくれているとはいえやはり生活していれば埃も立つ。窓際なんて余程の事が無い限り念入りに掃除する事はないから、尚更。
だからおれ達の周りをきらきら、きらきら埃が舞って、ただそれだけの光景を陽の光と弱い風が大袈裟に演出するもんだからキレイだなんて思えてしまう。
おれじゃないと、きみじゃないといけない理由って何だろう。
分かんないな。
本当の答えはきっと彼にもおれにも分からないけれど、ただ一つはっきりと分かること。
今おれの腕の中に在るのが「きみ」で良かったということと、「きみ」でなければならないってことだけだ。
それはもう揺らがない。絶対にね。
「りょうくんにとってもそうだといいんだけどなぁ」
「何がですか」
「ねぇ、どうしておれだったんだろうね」
「ホントにね」
そこは「あなたじゃなきゃダメだったんですよ」とか言う場面じゃない?
でもそんなキレイゴトを言わないところも嫌いじゃないや。
丁度目の前にある彼の頭の上に、顎を乗せたら怒られた。
ちょっと、って咎めるには余りにも弱く、嫌がっているという割には余りにも優しい声音が顎の下で響く。
じゃあまぁいいかって、おれはまた彼の優しさに付け込んで目を閉じた。
難しいコトは後回しにして今はただ、こうしていたいって思う。
そう思ったのが伝わったのだろうか。
ちょっとだけ強めた腕の力に応えるように、おれの背中の服のシワがちょこっとだけ強く引っ張られた。気がした。
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