パキッと足元で音がした。あぁ、何か踏んだんだ。
その「何か」を確認することもなく、俺はまた歩みを再開した。
割れたのだろう。粉々だろうか。
その破片は、俺の靴底にまだ引っ付いているだろうか。
靴の裏を確認するのも面倒になって、一度歩を止めてもやはり俺は歩みを止めない。
俺がゴミ箱に捨てたモノはきっと誰かの宝物だった。
同時に誰かが捨てた、或いは踏み躙った色々なモノは俺の宝物…だったのかもしれない。
分からない。
痛覚も何処かに置いてきたから。
今しがた俺が踏み潰したものはなんだったろう。
あれも誰かの大事なモノだったりするのだろうか。
全く、反吐が出るな。
実際に出たとして、ヘドってどんな色なんだろうな。
臭いかな。気持ち悪いかな。それって俺みたいなものなのかな。
でも確か、俺って見た目は所謂フツウより良いらしいから、中身がいくら腐っていても大抵の人は気付きやしない。
ちょっと目を合わせれば、ちょっと微笑んで頷いていれば大抵の奴らはそれだけで頬を赤らめ俺に近付いてくる。
臭わないのかな。不快じゃないのだろうか。
だって俺だよ?反吐ときっとそう変わらない、「俺」だよ。
こればっかりはいくらゴミ箱に捨てたくたって、ゴミ箱からノーサインが出るくらいだ。
足音が聞こえる。誰か近付いてくる。
さあ形作ろう。整っているらしいこの顔で、形だけの笑みを。
俺の淀んだ瞳の奥に気付く奴なんてきっと鏡の向こう以外にいはしないのだから。
「貴方は…何で、泣いてるの?」
「………は?」
笑っていたつもりだった。いつも通り完璧に。
予想外の言葉に思わず自身の頬に手を当ててみるけれど、濡れた感触はない。
なのに突然俺の前に立ち塞がったこの少年は今なんと言ったか。
「あ、ご、ごめんなさい。でもどうしてか今、」
貴方の泣き声が聞こえて。
小さな唇を震わせながら精一杯告げる彼の方がずっと泣きそうな顔をしていて、それでも見据えてくる漆黒の双眸から俺は逃れられないでいた。
「泣いてるように、見えた?」
小さく縮こまる少年に、わざと意地悪く聞き返す。
すると彼は逡巡の後、こくりと小さく頷いた。
参ったなぁ。
いつもなら何を言ってるんだこの不審者はと一蹴してしまいそうなところだが、何故だか今日はそんな気分じゃない。
偶々俺にそんな風に言ってくる奴が珍しかったってだけかも知れないけれど。
「…捨てないで、欲しい」
「なに、を?」
「貴方の、大事なもの、を」
僅かに揺らぐ漆黒の中には、一番星みたいな光が確かに宿っていた。
ちょっと俺には、眩しすぎるなぁ。
パキッと音を立てて壊れたのは一体何だったのだろう。
俺はそれを確かめもせずにただ只管歩みを進めた。
だって確認したって何の意味もないじゃないか。もう壊れてしまったものを拾い上げたところで、俺にはそれをただ眺めることしか出来ない。
そうして痛い思いをしたって心を侵食してくる暗闇にただ餌をやる様なもので、そんな苦しみをわざわざ味わうくらいならさっさとゴミ箱に全て放り出して記憶から消してしまった方が楽だ。
だってそうだろう。
そうやって放り出す以外に、俺に何が出来るっていうんだ。
そのままゴミ屑が溢れ返った地面をバキバキ言わせながら、俺は歩き続けるんだ。
たまに布団からも出ないで動きたくない日もある。
家から出ない日だって何日もある。
…歩いてもいないのに、足元で音がするんだ。
また何か踏み潰しただろうか、まぁいいやって。
そうして倒れるのを待つ俺の後ろで、誰かがその破片を拾い上げた。
まるで大切なものでも扱うかの様に、そうっと。
それからそっとキスを落とした。
今まで地面に落ちていたものに口を付けるなんて、正気ではない。
俺は慌てて止めに入るけれど漆黒の瞳を携えた彼はふるふると首を振って、今にも泣きそうな顔で俺を見上げるんだ。
「何で泣いてるの」
これはお前が言った言葉だろう。
だけど何度俺が尋ねてみても彼はふるふると小さく首を振って、拾い上げた欠片達をぎゅっと握り締める。
「…捨てないで、欲しい。どうか痛がってることに、気付いて欲しい…これは貴方の、」
「俺の?」
「大事なモノでしょう」
粉々になって地面に散らばっていた欠片は何処からか差し込んだ光に反射してきらきらと煌めいている。
これ、何だったかなぁ。
俺の大事なモノって、何だったかなぁ。
俺もそうっと足元を確認して、靴の裏に張り付いていたそいつを手の平に乗せてみた。
こんな色してたんだ。割と綺麗かもしれない。
振り返ると泣きながら笑う変な顔。
漆黒に今にも零れ落ちそうな雫を溜めて、それでも嬉しそうに口角を上げる変な奴の変な顔。
「なぁ、これって俺の大事なものなの」
「綺麗でしょう?そうだと、思うよ」
「適当だなぁ」
「僕にとっても大事なんだ」
「そうなの」
「そうだよ」
だからこれからはもうちょっと丁重に扱ってよね。
頬を濡らしながら欠片を集めた彼は、その色とりどりのタカラモノとやらを俺の胸に押し込んだ。
入るワケないだろ、馬鹿だなぁと思っていたら何とそれらはすっぽり俺の胸に収まって、いつの間にか出来ていた穴を塞いでいった。
あ、穴開いてたんだ。気付かなかった。
ぽたりと、足元で音がした。あぁ、また何か落としたんだ。
彼がそうっと俺の頬に触れて、「お揃いだね」と微笑んだ。
「そういうお前の頬もまだ濡れたままだぞ」って俺も彼へと手を伸ばして、そうっと涙を拭った。
何で泣いてるんだろう。俺もこいつも。
もう忘れちゃったや。まぁ、いいか。
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