少しずつ、季節の変わる匂いがする。
いつの間にか随分と慣れ親しんだ体温はやっぱり直ぐそこに居て、いつしか俺はやけにその温度に安心するようになってしまっていた。
そして何度隣を見てみても噂なんて本当にただの噂だな、としか思えないほど表情筋の緩みきった藤倉の顔。
俺にとっては見慣れた、緩く口角の上がったいつもと同じ穏やかな表情がある。
俺の視線に気付くと直ぐに自身の視線を重ね、微笑みを濃くして顔を覗き込んでくる藤倉は何だか散歩中に飼い主を見上げてくる犬みたいだ。尻尾があればきっとブンブン振っているのかな。
まぁ不本意なことに、見上げるのはどちらかと言うと俺の方なんだけど。
「藤倉、あのさ」
「なぁに」
「お前もその…欲しいとか思うの?恋人、とか」
「とか」
「だからその、彼女とかさ。お前も一応年頃?だし、欲しいって思ったりするのかなぁなんて」
「………」
「え、なに?何なのその顔」
先程までの嬉しそうな笑みは何処へやら。藤倉は一瞬真顔になった後何度かパチパチと瞬きをし、物珍しそうな表情で俺を見てきた。
馬鹿にされている訳ではないだろうが、その顔に少し呆れているような感情が見て取れたのは俺の気のせいだろうか。
「いや、澤くんからそんな話題振られるなんて珍し過ぎて…。あ、例え雨降っても俺いつでも折り畳みあるから気にしないでね」
「降らねぇよ!?てかそんなに珍しいかな」
「うん。めっちゃ」
「めっちゃ」
「まぁさっきの質問を言葉通りに解釈すると、彼女が欲しいか否かってことだよね?」
「まぁ、そうかな」
「うーん。イエスかノーかで言うとー」
「言うと…?」
クイズが正解かどうか発表される前のような妙な緊張感を覚えながら、俺はじいっと彼の横顔を見つめた。何故だか分からないけど、少しだけ速まる鼓動を少し心地悪く感じる。
そんな俺の様子を知ってか知らずか、少しだけ勿体振った後で藤倉が答えた。
「ノーだね」
「そっか」
あれ、嫌なドキドキがなくなったな…。
何だったんだ?
というか、聞くまでもなかったかな。
藤倉ってばあれだけ告白されてるのに一向に断り続けてるもんなぁ。彼女が欲しいならこいつなら今すぐにだって出来るだろうに、そうしないってことはつまり望んでいるっていう訳ではないんだろうけど。
でも、何でなんだろう。
「彼女は要らない。恋人…じゃ足りない」
「んん?つまりどゆこと?」
「どういう事でしょう」
「何か含みのある言い方だなぁ…。もっと分かるように言ってよ」
「だから毎日言ってんじゃん」
「んんん?」
益々訳分かんねぇ。
俺が首を傾げていると、隣から遠慮がちな声が降ってきた。
「澤くんこそ…」
「ん?なに?」
「や、何でもない。あー…そう言えばさ」
「うん」
「母さんが…その、澤くんのことめちゃくちゃ気に入っちゃって。今度また自分の居る時に連れてこいってうるさいんだよ」
「藤倉のお母さんが?ふふ、いいよ。何か嬉しい。また行きますって伝えといて」
「うん…言っとく」
言いにくそうに視線を下げる藤倉を見てると、こいつは本当に表情豊かだなぁと思う。一日中見ててもきっと飽きないだろうなんて思うくらいには、俺もこいつに染められてしまったらしい。
結構一緒に居るつもりなのに気恥ずかしそうに頭を掻きながら少し俯く姿は新鮮で、胸の辺りがほわっと温かくなるのを感じた。
俺が関係してるかどうかは分からないが、あれから少しずつ家族の人とも会話が増えたのだろうか。
烏滸がましい考えかも知れないけど、そうだったらいいな。もしそうなら、嬉しいなぁ。
でも…。
「何かちょっと嫌そうに見えるのは気のせいか?」
「別に…。ちょっと複雑なだけ」
「そっか?」
今までの反抗期を振り返って恥ずかしくなったのだろうか。まぁしょうがないか。
家で一体どんな会話をしてるんだろう。
きっと素っ気無く、けれど照れ臭そうに家族と会話している藤倉を勝手に想像して、俺はふっと自然に頬が緩んだ。
直ぐ隣で心配そうに俺を映す瞳には気付きもしないで。
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