自宅のソファで、俺は大きく溜め息を吐いて項垂れていた。
「まさか俺がそんなに無神経なことをしてたとは思わなかった…。そりゃ避けるわ最低だよ俺…」
「そうだねー。デリカシーの欠片も無いよね」
「うっ、返す言葉も無い…。でもまさか、あいつが俺のこと、そういう意味で、す、好きだったなんて…知らなかった…」
入学式で仲良くなってから結構一緒に居たのに。全然気付かなかった。
いや、気付かれないようにしていたのかな。
ぼんやりと大学に入ってから今までの事を思い返すも、そんな素振り全然思い当たらない。今までどんな気持ちだったのかな。
俺、他にももしかして無神経なこと言っちゃったりしてないかな…。
うーんと考え込む俺をじいっと見つめてくる褐色に気付いて、ふと馬鹿な考えが頭を過った。いくら何でも考え過ぎか。というか、自意識過剰だな。
無い無い。それは無いよ。
だってその可能性は何度も自分の中で打ち消してきたものじゃないか。
ちらりと見つめてくる瞳を覗き返すと、彼が薄らと微笑った気がした。
そのせいだろうか。
勝手に口が開いて、俺の馬鹿な考えを言葉に出して聞いてしまったのは。
「なぁもしかしてお前…も、俺のこと好きなの」
「ん?どうしたの急に」
「だって幼馴染みとは言えこんなに一緒に居たがるのおかしいじゃん…。いくらなんでも引っ付き過ぎだし、先輩にキスされそうになったのも庇ってくれたし」
「あれは章ちゃんが嫌そうだったから」
「じゃあお前は別に俺にその…恋愛感情があるとかでは…?」
「レンアイ…かんじょー?」
「だからお前は!そういう意味で俺のこと、好き…なんじゃないのかなーなんて」
「おれは別に、章ちゃんのこと好きじゃないよ」
「じゃ何で、俺に付き纏うの」
「つきまとう?」
「何でそんなに俺と居たがるのかって訊いてんの!」
唇が勝手にわなわなと震える。一吹は俺が何を言っているのか分からない、という顔をしているが分からないのは俺の方だ。
こいつとは幼馴染みだし同居してるし何だかんだ引っ付いてくるし、俺のことを嫌っているとは思えないがそれにしたって度合いというものがある。こいつの場合はそんなものがまるですっぽ抜けていてマイペースこの上ない。
その行動の根底にどんな感情があるのか、何故こうも俺に構いたがるのか。
それを知りたいと思うのは自然なことだと思うのだが、こいつの本質を覗く様で訊くのが怖い気持ちもあった。
だけど遂に聞いてしまった。
そして「好きじゃない」と言われた。
その一言が、ただの空気の振動が胸にやたらと突き刺さる。
そして俺はまた自分の傲慢さを見つけてしまった。
別に恋愛感情を抱いていて欲しかった訳じゃないけれど、それでも少しは親愛の情があるものだと思ってたんだ。
今まで冷たく接してきた自分が言えたことじゃないのは分かってるけど、それでも…。家族愛でも友愛でも何でもいいから、少しは好意を持ってくれてるものだなんて…そう期待していたなんて。
求めてばかりだった。
俺は何て醜いんだろう。
こいつは、俺のことなんて別に好きじゃないと言った。
ならば今まで俺へ向けていた眼差しも体温も、全て嘘だったのだろうか。
もしそうだとして、何故俺はこんなにも胸の辺りが苦しくなっているんだろう。
「…俺のことどうでもいいならもう、」
「何言ってるの?どうでもいい訳ないじゃん。だって章ちゃんは空気みたいなものだから」
「………は?」
くう、き…だと?俺が?
あれだけ引っ付いてきておいて、そんなに存在感が無いとでも言うのかこいつは?
「章ちゃんは、おれにとって空気みたいなもの。それが無きゃ生きられない。だけど空気や水に対して、いちいち好きだとか愛してるだなんて思わないでしょう?」
まるで明日の天気は晴れだよ、とでも告げるようなトーンで一吹がそう言うものだから、俺は一瞬ポカンとしてしまった。
この唇から発せられた言葉の意味を理解するのに数秒…いや、数分はかかったのだ。
漆黒の髪が艶めきながら風に揺れる。
もう少しで肩に付くんじゃないかってくらいのウェーブがかったその髪が、躊躇無く俺の頬を撫でた。
…空気にキスなんてするだろうか。
いや、いつもしてることになるのか…?吸って吐いてるんだもんな、唇に常に触れてるもんな、だって空気…だもんな…?
そうか。空気、だから。
だから息を吸うように、酸素を体内に取り込むようにこの男は俺にこんな風に触れてくるのかも知れない。
…空気ってこんなに熱かったっけ。
口の中も舌が絡み合って唾液が漏れる。その唾液すら舐め取ってまた肺の空気を分け合う様に、一吹が俺の口を塞いだ。
「ふっ、あっ、…ひぁあっ?!」
「ふふ、気持ちい?ここ」
熱が籠った手の平が服の中に入り込んでくる。細長い指が背骨をつうっとなぞる度に、口からは勝手に高い声が漏れた。
その声すら飲み込もうとするみたいに一吹がまた俺の口を塞ぐ。
思考も身体も熱で溶けそうになった頃、唐突に顔を離されてソファにゆっくり倒される。生理的な涙でぼやける視界には、見慣れた端正な幼馴染みの顔があった。
今どんな表情、してるんだろう。
瞬きをすると、薄暗い部屋の中でも綺麗な光を放つ褐色が射抜くように俺を見ていた。
さっきまで好きな様に俺の咥内を貪っていた唇はどちらのものか分からない唾液で濡れ、いつも以上に艶めいている。
俺はそれをぼうっと見つめながら、荒くなっていた呼吸をゆっくり整えた。
目の前の唇が開く。
俺の耳は無意識にその声を、低音の心地好い響きを期待していた。
「ねぇ章ちゃん」
「な、に…?」
「章ちゃんがしたいなら別に、ドウセイもケッコンもすればいいよ」
「え、いいの?」
発せられた言葉は余りに意外なもので。
冷静に考えればこいつに俺の人生をどうこう言われる筋合いなど無いのだが、今までの経験からもっと縛られるものだと心の何処かで思っていた。
何故だか分からないがこれだけ俺から離れないこいつのことだから、そんな事を言われるなんて思いもしなかったのだ。
けれども一吹はまた、何でもない事の様に言い放つ。
「うん。全然?」
「じゃあ、それじゃあお前はどうすんの」
もし俺が誰かと付き合って同棲して、将来結婚したら…。勿論今の様な生活は続けられない。少なくとも俺は、というか世間の常識ではそう考えるのが自然だと思っている。けれど一吹は不思議そうにぱちぱちと瞬きをすると、あっけらかんとして答えた。
「おれ?どうもしないよ。今までと同じ」
「同じ…?」
「ちゃあんと息が出来るところに居るよ」
「は?あ、ちょっ…!」
彼はそう言うと俺の首筋に顔を埋めて、すうっと思い切り匂いを嗅ぐ。ウェーブがかった髪がいちいち擽ったいから、切るか縛るかして欲しいんだけどな。
一頻り深呼吸して満足すると、ゆっくり一吹が顔を上げた。
褐色の瞳が俺の平凡な黒い瞳と重ねられる。
穏やかな口調とは裏腹にぎらりと妖しげに光るその眼差しは、幼い頃のあどけなさと成人の色気が入り雑じっていてとてもアンバランスだ。
「…無くならないと、分からないなんてやだなぁ」
ぼそりと薄い唇から発せられた言葉は、何に対する返答でもなかった。
「なぁ一吹…お前はもし俺が誰かと結婚しても、俺から離れないってこと?」
「逆に訊くけど、章ちゃんは宇宙服無しで宇宙で生きられるの?」
「や、無理だろ…何を当たり前のこと、を…」
馬鹿な俺はそこで漸く気付く。
この厄介過ぎる幼馴染みに、端から俺と離れる選択肢など無かったのだと。
それは例え俺が恋人を作って同棲しようが結婚しようが或いは海外へ移住しようが同じこと。
こいつは空気の様に、しかし確かな存在感を持って一生俺の傍から離れるつもりなど毛頭無いのだ。
褐色の瞳がまた俺を捕らえる。
理解した瞬間ぞくりと背中が粟立ったけれど同時にもう、逃れる術は無いとも理解した。解ってしまった。
だって俺達はお互いに、「空気」なのだから。
そこに在るのが当たり前で普段はその存在すら意識しない。なのにそれが無いと途端に生きられなくなる。空気みたいに、水みたいに、俺達をこの星に留める重力みたいに。
当たり前過ぎて気付かない程に俺達は近くに在りすぎたのだろうか。
いつからだったろう。
生まれた時から、そうだったのだろうか。
幼稚園の時から?初めて言葉を交わした時から?それとも、生まれるその前から?
嗚呼、もうどうしようもない。
互いの呼吸を分け合って奪い合って、しがみついて離れない。離れようがない。
「章ちゃんは章ちゃんだから。他の何に例える必要も無いよ」
空気とー、水とー、食べ物とー、章ちゃん。生きるのに必要最低限だというものを指折り数えてへにゃりと笑うその顔は良く知っているカオなのに、全く知らない人のようで。
どくんと心臓が跳ねたのは恐怖からか、それとも別のモノからか。
ふわりと香るのは俺の髪と同じ匂い。
安いシャンプーの、少しも甘くないちょっと石鹸みたいな匂い。
なのに何故こんなにもこの匂いに安心しているのか。息を深く吸うと、さっきの心臓の警告は何だったんだっていうくらい、鼓動が一定のリズムを取り戻し始める。
その感覚の意味を自分が理解するよりも前に、勝手に喉から声が出た。
「…い、ぶき。一吹」
「なぁに、章ちゃん」
やだな、やけに安心する。
呼び慣れた音に、それに反応するその薄気味悪い穏やかな笑顔に、やけに甘ったるいその声に。
背中に回されて離されそうにない手の平に、癖の強い黒髪に、その隙間から覗く褐色にも、全て。
空気の無い世界はきっと苦しい。
とても苦しくて、どうしようもない。
それがなくちゃ困るとか不便だとか、そういう次元の問題じゃない。
無いなんてあり得ないんだ。
「…なぁ一吹。これからも俺を分けてあげる。だからその代わり、」
お前も俺に分けて。
ちょうだい。
全部じゃなくていいから、ちょっとずつ。
俺にもお前を分けて欲しい。
「うん」と満足気に微笑んだ甘ったるい笑みはやがて視界でぼやけてしまって、俺達はそのまま呼吸を分け合った。
これからも、きっとそうやって。
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