誰にも平等に、残酷にも優しくも思える程一定の速度で、ただ淡々とその針は回り続ける。
あの時彼と出逢ってしまってから僕の心は止まったまま、それでも針は時を刻むことを止めはしない。
『母さんはな、…お前を置いて行ったんだ。捨てられたんだよ。俺と一緒にな』
『何あいつ?何しても無反応だしキモくない?あんなんじゃさぁ、』
『まるで人形だよね』
煩いとも思わない。そうなのか、と何となく飲み込んできた遅効性の毒が今更になって身体を重くしていることにすら僕は気が付かない振りをした。
その怠さを誤魔化すように、小さな針で指先を刺す。するとつうっと赤い水玉が出来て、じんじんと痛みが広がった。
人形も、同じことをしたら痛いのかな。
人形も、刺したら赤い水が出るのかな。
人形も、誰かを愛してみたいとか、出来れば愛されたいなんて…思うのかな。
指先の赤は拭き取ればすぐに無くなったけれどそれでもまだ血が止まっていないような気がして、絆創膏を貼っても貼っても赤い血がどこかからまだ零れ落ちているような気がした。
ねぇ、僕が愚かだったの?
心の奥底にある本当の願いは、いつも叶えられやしなかった。
僕は神を信じてはいない。この世に超自然的な力があったとしても、それが人の形を有しているとは思っていない。
だけど何故。何故、都合の良い時ばかりアナタを頼ってしまうんだろう。
アナタを責めてしまうのだろう。
ふと見上げた先にあったのは、仕事場の最寄り駅にある大きな時計塔。その秒針は次の時間へと一定の速度で進み続けていた。
…もしも、アナタが居るのなら。
「僕の願いは」
小さな声で、しかしはっきりと時計を見据えながら願いを告げた。
そうして秒針がまるで止まっているかのように見えたその狭間。
「 」
永すぎるその一秒の間に僕が願ったのは、ただそのひとつだけだった。
その直後だ。
屋内なのに瞬間ふわりと風が吹き抜けて、辺りを歩いていた人々も驚いたのか少しだけ立ち止まる。が、何事も無かったかのようにすぐに歩みを再開しだした。
「時人」
誰かが僕の名を呼んだ…気がした。
嗚呼、本当に貴方はずるいなぁ。
その声の穏やかさを、滲み出る優しさを、その色を。痛い程にこの身体が覚えている。
振り返った先に必死にその姿を探すけれど、ざわざわと過ぎ去る人混みの中に声の主は見当たらない。
遂に幻聴まで聞こえだしたのか…。
彼と居た時間はそれ程長いものではなかった筈なのに、いつの間にこんなにも焦がれてしまうようになったのだろう。
寧ろ逢えないと思うからこそ、思い出として美化されてしまっているのだろうか。
しかし思い出にしては余りに生々しく美し過ぎる。
かといって現実にしては余りに浮世離れしていて未だに信じきれていない自分も居る。
それなのに何故、貴方は僕の前に現れたんだ。何故こうも僕の中に残って消えてはくれないんだ。
何で、何で、なんで。
「…と、ときひと」
またあの声が鼓膜を震わせる。
あの部屋で彼に名前を呼ばれたことなど一度だって無かったのに、何故幻聴だと呼んでくれるんだ。いや、幻だからこそ、か。
誰かに呼んで欲しかったんだ。そんな風に優しく、まるで愛おしいものを両手で包み込むように…僕の名を。
呼んで。もっと、呼んで欲しい。
「時人」
彼の名前を聞いておくんだったな。
あれだけ沢山色々な話をしたというのに、肝心なことは何一つ訊けやしなかったんだから。
つうっと雫が頬を伝う。
透明なのに色んな感情が混じって濁ったその雫が音もなく地面に落ちる前に、誰かに後ろから抱き締められて僕ははっと息を飲んだ。
「時人」
耳元であの声がする。
そして今度は、頬にさらさらの髪の感触もする。僕を抱き締める手には見覚えがあるし、あの時のように僅かな体温を服越しに僕に伝えている。
そして何より…ぱっと振り返った先に漸く見つけた光が確かに彼が其処にあることを示していた。
眠る少し前に見たものとはまた違う、今度は喜びに満ちた微笑み。薄い唇はやっぱり緩く弧を描き、ガラスみたいな瞳はきらきらと輝いてはっきりと驚いた僕の顔を映し出していた。
「あ、えた…本当に…?」
「思い出してくれた。願ってくれた。言ったろ?これで契約は成立だ」
「契約?契約なんてした覚えは、ってちょっと!」
後ろから抱き締めていた彼はその腕の力を弱めると、僕を身体ごと振り向かせて今度は真正面から抱き締め直してくる。
その匂いと感触にひどく安心してしまいそうになるが、何やら聞き覚えの無い不穏な単語が耳に入って焦ってしまう。
けいやく?契約って言ったか?え、それって一体何の?
「また逢いたいって、思ってくれて嬉しい」
「思っ、たけどこんないきなり…。っていうか契約って、わわっちょっと!」
人目を憚らず唇にキスを落としてこようとする青年の顔を慌てて両手で塞いで、僕は思わず後ろに仰け反った。
邪魔されたことに腹を立てたのか、彼は綺麗な眉を顰めて明らかに不服そうな表情をしている。まるで我儘を聞いてもらえなかった子供みたいな顔だ。
「言ったハズだけど。アンタがもう一度俺を喚び出してくれたなら、その時は」
「いつそんな事言ったの?っていうか、あの時殆ど声が途切れてて聞こえなかったんだよっ」
「言い訳にはならないな。ともかく、もう一度逢いたいと思ってくれたんだろ?俺がここに居ることがその証拠だ」
ぐっと腰を抱き寄せられたまま周囲を見ると、先程まで何処かへ急いでいた人達が歩を止めてざわざわと僕達を見ていた。
中には頬を赤く染めている人もちらほら居て、「あらまぁ」と言わんばかりに両手で顔を覆っている人も居る。
顔を真っ赤に染めて友達と何やらコソコソと話している女子高生や、「今時の若者は…」とでも言いたげに眉を顰める人も居た。
これだけの美青年がこんな街中に現れたらそりゃまぁそんな反応にもなる…よなぁ。というか、この体勢のせいでもある気がしないでもないのだが。
「ちょっと、場所変えよう?っていうかまずこの体勢をですね…もう離してくんないかな」
「やだ」
食い気味に拒否されてしまった。それどころか、肩に顔を埋められてぐりぐりと額を擦り付けられる始末だ。
僕のではない漆黒の髪が頬に当たって擽ったい。腰どころか背中全体に回された手も嫌でも密着している全身も、確かな温かさを持って僕の身体中にその熱を広げていく。
その熱がやがて僕の身体を侵食していた遅効性の毒たちを溶かしてしまったらしい。気怠さなんてとうに何処かへ消え去って、またあの心地好さが帰って来たみたいだ。
あの風が、また連れて来てくれたのかな。
っていうか…視線が痛い。こんな人混みのど真ん中でこんなにも抱き締め合っていれば、そりゃあ見ちゃうよな。
僕がしどろもどろしていることに気が付いたのか、漸く顔を上げた彼の紺碧と目が合った。
「人目が気になるのか」
「当たり前だろ…」
「じゃあ、これを被って」
「わわっ、え?」
彼が何処からか取り出した布をバサッと頭から被れば、今まで此方を凝視していた人々が突然はっとしたようにぴくりと肩を跳ねさせて、それから何事も無かったかの様にまた歩みを再開した。
頬を赤く染めて照れていた女子高生も怪訝な顔をしていた老人も、誰も彼もが僕らの抱擁など見なかったかの様に通り過ぎていく。
こういうマント映画で見たことあるんだけど…実在するんだ…。人々の記憶までもを操作出来るのかは分からないが。
油断していると、人目が無くなったのを良いことに彼が再び顔を寄せて来た。今度こそキスされる、と思ったらゼロ距離で顔を近付けて来て猫のように頬擦りをされる。
シミ一つない肌はつるつるで気持ち良かったが、やがて耳元で彼がぼそりと呟いた。
寂しかったのだ、と。
そう言えば僕がこの青年の事を思い出してから一ヶ月程の時間が経っていたのだが、あちらの部屋では一体どれ程の時間だったのだろう。
二日が数時間に感じるくらいだから、そんなに長くもないとは思うんだけど…。
「あのー、」
「一日、一時間、一分一秒だって永く感じてたよ」
アンタのせいだから責任取ってねなんて言われても、一体僕にどうしろというのか。
「な、何で僕なの」
ゆるゆると僕の頭を撫でながら親指で唇をふにふにと押してその感触を楽しんでいる彼に問えば、「始めに言ったじゃん」と不服そうな顔をされた。
青年の姿をした彼は僕の唇を弄ぶのを止め、自身の顎に手を当ててうーんと少し考え込むような仕草をするとやがてもう一度口を開いた。
そうして出た言葉はやっぱり「色が綺麗だから」だった。
「だから僕はその意味を知りたいのに」
「そのままの意味だよ。見えないだけで」
「貴方には見えるの?」
そう訊くと、青年は勿論といった風に首を縦に振った。その動きに合わせて、さらりと揺れる漆黒が肩から流れ落ちる。
「本当は誰よりも感受性が強くて感情豊かで、面倒臭い奴。だけど色んなモノの中にあっても澄んだ色を濁さずに居られるアンタだからこそ、見つけられたんだよ」
そう言って歪められる青はあの空のように痛くはない。ただ少し潤んで、きらきらと光を分散させてはその瞳の中の星を煌めかせていた。
そうっと頬に触れると、今度は僕から口付けを落とす。
…ちょこっとだけ背伸びたしたんだけど、この場合でも「落とす」っていうのかな。
なんて馬鹿なことを考えているうちにも、彼の方からぐいと思い切り後頭部を固定されてキスのお返しをされてしまった。
初めはそろりと唇を舐められるだけだったのにやがて僅かに開いた隙間から熱を持った舌が侵入してきて、僕の舌と絡み合う。
反射的にピクリと後ろに逃げようとする腰を捕まえられて、僕はただされるがままに咥内で動き回る舌に翻弄されていた。
「ふぁっ、ちょ、んぅ…」
「ふっ、うれしい…」
後頭部に回されていた手はいつの間にか頬に寄せられて、長くもない髪をやわやわと撫でたり親指で耳を弄んで来た。
そのまま耳を塞がれてしまえば、口の中で鳴り響く水音だけが僕の鼓膜に届いて更に興奮を煽る。
言葉だけでなく眼差しが、熱が、僕に触れる指の力が僕の感情を揺さぶった。
嗚呼、どちらのものとも分からない熱がもう完全に体内の毒を溶かしてしまったんだなぁ。
感情とはこんなにも厄介なモノだったなんて、初めて知った。
自分勝手に現れては消え、また現れてくれたこの温度を二度と離したくないなんて欲求を強く抱いてしまった僕はもう立派に強欲だ。
一頻り僕の咥内を味わい尽くした彼が、片手で今にも崩れ落ちそうな僕の腰を支えながら、もう片方の自身の指先を見つめる。
それが一体何を意味するのか、酸欠でぼうっとする頭でも分かってしまってつい僕は口を開いた。
「また指を傷つけるの?」
「ふっ、そんな事を気にしてくれる辺り、やっぱりアンタはお人好しだよなぁ」
「だって、確かにあの部屋は心地好くて好きだけど…貴方が痛いのは嫌だ」
「ならそうだな…。今度は俺が、ちょっとこの世界で過ごしてみようか」
そう言えばあの時…瞼が閉じる直前に、彼がそんな事を言っていたような気がする。
ぼうっとする頭で彼の顔を眺めていると、視界の端にきらきらと光る水色の何かが見えた気がした。
「あ」
「ん?どうした」
「や、何でも…」
透き通った川みたいな、陽の光できらきら反射する水みたいな、そんな色。透明って言うのかもしれないけれどそれよりもう少し確かな色をもって、それは彼の周りを漂って消えた。
何だったんだろう、今の。
「俺の唾液を飲んだから、ちょっとは見えるようになったのかもな」
「だっ、ちょっともう…」
さらりと言ってのける彼に悪気はきっと無いのだろうが…先が少し思い遣られる。
案の定身体の力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった僕をひょいと姫抱っこして、彼がまた悪戯に笑った。
何て嬉しそうに笑うんだろうな。本当に。
「でも何で、僕の名前を知ってたの?教えた覚え無いんだけど…」
「そりゃあだって、分かるさ」
「え、まさか死神の目、的なそういう…?」
「死神ではないよ、死は司ってない」
じゃあ一体何を司っているんだろう。なんて野暮な事は訊かない。
その代わりに。
「じゃあ、訊いても良い?名前」
「俺の名前?俺は、」
ふわりと風が吹き抜ける。漆黒の髪を揺らして、満足そうに微笑む紺碧の視線をすぐ近くに感じながら、釣られて僕もふっと微笑んだ。
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