時計が鳴る。
ピピピピッと枕元で朝の訪れを告げる小さな四角いそのボタンをちょんと押して、アラーム音を黙らせた。
音が段々と弱くなっているな…。こないだも電池を取り替えたところなのに、もうそろそろこの時計も買い替え時なのかもしれない。
窓の外を見やると、黄色がかった眩しい明るさが寝起きの目を刺激した。
どうやらこの世界から外出していた太陽がまた、律儀にも再び戻ってきたらしい。
朝が来て昼が来て夜が来て、雨が降ろうが雪が降ろうが晴れ渡ろうがそんな事は微塵も関係無く続くこのセカイの理。
陽の光が僅かに開いたカーテンから差し込んで、物の少ない僕の部屋を一部だけ照らし出していた。
穏やかな光。
柔らかい、包み込むような優しい光。
何故だろう、頭が痛い気がする。
…今日は体調不良で休もうか。それとも病院へ行くと言って、いつもより遅くに出勤しようか。
そんな考えを頭の片隅に追いやっていつも通りに準備し、いつも通りの時間に家を出る僕はやっぱり真面目が過ぎるのだろうか。
駅には多くの人がごった返し、誰も彼もがそれぞれの行く先へ急いでいる。
電車なんて数分おきに来るのにな。そんなに焦らなくたって、次の電車が来るまで待てばいいのに。
出発寸前の電車に乗り込もうと急いで階段を駆け下りる人々を見て、僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
油断していると後ろから階段を下りてきた人に鞄をぶつけられ、危うくバランスを崩して転げ落ちるところだった。
ぶつけた人はきっとぶつかった事にすら気付いていないで慌てて閉まりかけの電車の扉に駆け込んでいる。
僕は僕で、ただ次の電車の時刻を確認するだけだった。ぶつかられたのかどうかすらもう怪しい程に先程の出来事への興味は消え失せていたのだ。
…何だろうな。頭痛はもう無いけれど、今朝からどこかぼんやりしている。
ここに居るのが日常ではないような、まだ夢の中にいるような…そんな感じだ。
ふわふわする。かと言って貧血な訳では無いし、眩暈がする訳でもまして気分が悪い訳でも無い。
寧ろ…。
無意識に指が唇に触れた。カサついたそこには特に何がある訳でもないのにただ何となく、本当に何となくするりと指でなぞってみた。
あ、視界の端に映る空が青い。
風が僅かに遠くの植物を揺らすのを見て、何故だか異様に懐かしい気持ちになる。
懐かしさ、郷愁、安堵、疑問。寂しさ…?
「…あ」
ふわりと香る花の匂いに、ふと足が歩みを止める。そうして脳裏に浮かんだ漆黒の長い髪と、紺碧の…。
「だれ、だ…?」
ふわりと微笑んだその表情は、明らかに僕に向けられたものだった。
それだけははっきりと覚えているのに、貴方の姿が霞んでしまう。
深く深く覆われた霧の向こうへ精一杯手を伸ばして、僕は一体何を望もうとした?
その霧の先に薄っすら見えた人影を、どうしてこんなにも気にしてしまうのだろう。
電車が発車する。
直ぐにまた、別の電車が来て僕は人に流されるようにその電車に乗り込んだ。
電車の中で何とか比較的人の少ない窓際へと移動して、ぼんやりと外の景色を眺めた。
ついさっきまであんなにも青かった空が少し曇り始めて、今にも雫を零しそうだ。
今日は雨が降るなんて予報じゃ言っていなかったのに、天気雨だろうか。傘なんて持っていないし、今日に限って折り畳み傘も家に置いて来てしまった。
参ったな…。降りる頃には止んでるといいなぁ。
そんな事を考える僕の目の前にぽたりと落ちた一雫。
窓に吸い寄せられるように落ちてきては風で流れてゆくその一滴を見て、地面に落ちる赤が脳裏を過った。
「ぼ、くは…」
もう一度、今度は意思を持って微かに震える唇に触れた。そうして漸く蘇る数々の感覚に、涙が零れそうになる。
情けない声と共に溢れ落ちそうになるそれを必死に堪えて、僕は何度も霧の向こうへ手を伸ばした。
精一杯手を伸ばした先に貴方が居る。
貴方が居るのに、それは僕の記憶の中だけで。
電車は次の駅まで走り続ける。
雨なんて直ぐに止んで、まるで何事も無かったかのように。
貴方の居ないこの世界で。
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