「感情が何処から来るか、知ってるか?」
「感情だから…心?」
風が吹く。どこからか青臭い草花の匂いを運んできて、隣に座る青年の艶やかな長髪をゆらりと弄んではまた何処かへ旅に出た。
そんな光景にぼうっと見惚れていると、先程の答えの先を急かすように紺碧の瞳が僕の視界の中心に割り入ってくる。
「心って何だ?説明できるか?」
「え?ええと…」
改めてそんな哲学的なことを問われても、何も適切な答えが思い浮かばない。
何故この青年はこんなことを僕に問うのだろう。何故、そんな真っ直ぐな目で僕を見つめてくるのだろう。
まるで何もかもを見透かしているような、吸い込まれそうな力を持って。
「ふっ、困らせて悪かったよ。そんなものは俺にだって未だに分かりはしない」
「じゃあ何で訊いたの…」
「アンタの考えを聞いてみたかったからだよ」
柔らかに微笑う青年の横顔は時に無邪気で意地悪で、それでも楽しんでいるらしいことがネガティブな僕にも嫌という程伝わった。
僕と二人きりで話をしていて、こんなに楽しそうに笑うひとは初めてで。何がそんなに嬉しいのだろうと疑問は尽きなかった。
が、一番驚いたのは僕自身が一番この状況を楽しんでいることだった。
声を上げて笑うような楽しさとはまた違う、穏やかな楽しさ。居心地の好さ。
自分がここに存在していていいのかどうかなんていつもの浅はかな考えは恐らくさっきの風が何処かへ連れ去ってしまって、彼の隣がただただ心地好かった。
「わっ」
そんな僕の考えを察しでもしたのだろうか。今度は悪戯な風が強めに吹いて、僕の髪に葉っぱを残してまた去って行く。
「ふはっ、風に遊ばれてんな」
そう言って髪に引っ付いた葉っぱを楽しそうに払いのけるその手を見て僕はあのワンシーンを思い出す。
細長いその指先に傷跡なんて一つも残っていなかったことに安堵していると、葉っぱを払ってくれた筈の手は引っ込められることなくそのまま僕の髪を撫で下ろしてきた。
誰かに頭を撫でられるなんて子供の頃以来で恥ずかしくて、なのに彼は緩々と指先で長くもない僕の髪を梳いてはくすりと笑うばかりだ。
明らかに顔を赤くしている僕を見てはまた声を出して笑って、それでも撫でる事を止めてくれない。
先程の風もだが、この青年も中々に意地悪なのでは…。
「もういいでしょ」
「ありがとう」
「は」
「指。傷の心配、してくれたんだろう。もう痛くも何ともないから、大丈夫だ」
「…そっか」
いい加減撫でるのを止めてくれるよう言ったのに、予想外の返答。
見透かされていた…。またぽぽっと頬が熱くなる感覚がしてふいと顔を背けても、それでも青年が嬉しそうににこにこしている気がして。
自意識過剰かもとは分かってはいるが、その顔を見ていると僕も何だか胸の辺りがきゅうっとなってしまうから駄目だ…。
出来るだけ見ないようにしないと。見ないように…。
「あ」
「え」
そう思った矢先に突如発せられた間の抜けた声に、何事かと僕も間抜けな声を返して青年の方へ振り返る。するとぷにっと、頬を指の腹で突っ付かれてしまった。
「あっはは!ふ、ふふふ…。今でも引っ掛かる奴居るんだ…、ふふ」
「な、ちょっ…、何してんの」
この不可思議な世界にはデコピンもあれば頬ツンもあるのか…。何て感心している場合じゃない。
さっきから僕はこの青年の前で、赤面してばかりかもしれない。
…あれ。
そう言えば表情筋、意識しなくても動くんだなぁ。何でだろ。変なの。
変な感じ。
一頻り笑った青年が再び僕に向き直って僕らは会話を再開した。初対面でこんなに仲良くなるのも変な話だが、彼の前では僕が僕でないような、或いはこれが本来の僕のような不思議な感じがしたのだ。
僕は一体どうしてしまったというのだろう。
それからもさわさわと風が通り過ぎる部屋の中で、僕らは色んな話をした。時に哲学的で難しいことも訊かれるけれど、普段自分で考えることなど少ないことなのでどの話題も中々に興味深くて面白かった。
ふと、ちらりと本だらけの部屋を眺め直す。これだけの本を読むくらいだからきっと彼はすごく知識欲がある、頭の良い人なんだろう。
穏やかに話す言葉の端々からもその聡明さが窺われる。
話している間彼は、その眼差しを上へ向けたりたまに閉じたり、考えるように細めながらそれでもやっぱり僕へと向け直すことを止めなかった。
それが何だか擽ったくてそわそわして、やっぱり心地好くてしょうがない。
目は鏡だという。ならば彼の鏡に映る僕は一体どんな姿をしているのだろう。
どんな顔をしているのだろうか。
そんな鏡に映されながらぽそりと、僕の口から勝手に言葉が溢れ落ちた。
「ねぇ、嘘を吐くことはいけないことなのかな」
「さあ?嘘によるんじゃないか」
「嘘にも種類があるってこと?」
「嘘は、言葉だろう。言葉は刃にも薬にもなる。誰に向けて、どんな想いを乗せて放つかでそれはどちらにもなり得るし、例え相手を思い遣った言葉であっても相手の受け取り方でやはり鋭い刃にもまたはその逆にもなり得るんじゃないか」
「じゃあ、やっぱり嘘はいけないことになるのかな」
「アンタがそう思うなら、そうなるんじゃないか」
「あなたはどう思うの」
「客観的な答えが必要か?なら他の奴に聞くことだな。俺の意見は、さっき言った」
頬杖をついてふっと微笑う姿は僕よりも幾分か若い青年の様なのに、やっぱりどこか神秘的で目が離せない。
何分、何時間経ったのだろう。
もしかしたらもう日が暮れてもいい頃のはずなのに、部屋の隅からでも見える空はここに来たときと変わらず痛い程の青を広げていた。
「…戻りたいか?」
「もどる?」
「もう気付いたろう。ここは時間が経たない。日が暮れることはないし夜になることも、歳を取ることも無い」
「え、と…何をいきなり」
「アンタがここに来てからどれくらい経ったと思う?」
僕の心を読んだのだろうか。彼は確かな光を宿したまま、その目で僕に問い質すのだ。
僕は彼の真剣な眼差しを全身で感じながらも、ここに居た時間について考えてみた。思えばとても長い時間ずうっと話していた気もするけれど、それほどでもない気がする。
そもそも友人と呼べるものさえいない僕が仕事以外で、いや仕事でもこんなに人と会話することなんて殆ど無かったから時間の感覚がいまいち掴めない。
僕は少し考え込んで、おずおずと当たり障りの無い、妥当そうな答えを導き出した。
「数時間…くらいかな」
「二日だ。アンタらのジカンで言うとだが」
「二日っ?!」
これは流石の僕でも驚きを隠せなかった。
だってここに来てから彼と出逢って、談笑…というか色々話し合って、長くてもたった数時間程度だと思っていたのに。
確かにいつまでたっても暮れない空には若干違和感を抱き始めてはいたが、彼の返答は余りにも予想とかけ離れていて。
しかし彼がそんな嘘を吐くとも思えなかったし、実際彼の顔を見返してみても嘘を吐いている様にはとても思えなかった。
しかし彼の言葉が真実だとして、二日もここに居たのなら何故僕は平然と話していられたんだろう。何故お腹も空かず眠くもならず、疲れも無く話し続けることが出来ていたのだろう。っていうかトイレとかも…そんなこと全然気にしていなかったし、気にならなかった。
ここへ来たときとは違って明らかに驚いている僕を今度は困った様な笑みで見つめながら、また形の良い薄い唇がゆっくりと開かれた。
「俺は自分の意思でアンタを選んだ。だからアンタにも選ぶ権利がある」
「選ぶ?って、何を…」
「もしアンタが俺の事を思い出してくれて、もう一度逢いたいと願ってくれたなら…その時は…に…ってくれ」
「え、何?よく聞こえない、もう一回言って」
何故だ。こんなにも至近距離に居るのに急に彼の言葉が聞き取り辛くなってしまった。まるで言葉の端々にノイズがかったみたいに、壊れそうな古いラジオみたいに所々で言葉が切れてしまう。
彼の口の動きを見るに、はっきり話してくれている筈なのに。
「後はアンタ次第だ。もう一度…えたら、今度は俺がアンタの…界で…るのも、…くない…な」
「だからなにを言っ、て?!」
また、唇に柔らかい感触を受け取って言葉が遮られる。後頭部に回された手が仄かに熱を持って、彼がどうやら生き物であるらしいことに安心してしまった。
それどころではない筈なのに。
「俺は、アンタが俺を選んでくれることを望むよ。だけどそれ以上に、…」
なん、だ…。ねむい。とてつもなく眠い…。おかしい。さっきまで眠気なんて微塵も感じなかったのに、彼に口付けられた途端どんどんと身体が重くなって瞼を開けているのが難しくなっていく。
あ、何か言っている…。聞きたい。拾いたいのに。
僕へと向けられているその言葉を、声を、余すことなく全て受け止めていたいのに…。
ふっと弧を描く唇と少しだけ寂しそうに細められた双眸を見届けてから、薄情な瞼はこの居心地の好い世界から僕を離していった。
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