これは、とある世界のとある国のお話。
王都から少し離れた田舎町。町の外れから浅い森に入ったそこから更にでこぼこ道を行き、谷を渡り川を渡り、深い森を抜けた辺鄙な場所にその教会はあった。
いつ頃建てられたのか最早誰も知らない程古びた教会には訪れる者も殆ど無く、たまに道に迷った旅人か、興味本意の怖いもの見たさで訪れるおかしな者が尋ねてくるくらいだった。
そしてそこに住むのは極貧ながらも健気に生活する一人の少年と一匹の…。
「おい待て誰が極貧だ!あと教会は町のすぐ側だっつの。ちょっと町外れなだけで」
「みゃあ」
少し不機嫌に声を荒らげた少年と、愛らしい鳴き声でその少年の足元に擦り寄っているのはふわふわした毛並みの茶色い猫だ。
一体何にツッコんでいるのか、「誰が貧乏だよ」なんてぶつくさ言いながら何か薬草を調合している少年の足元で猫は気持ち良さそうに丸まっていた。
辺りに立ち込める薬草の匂いと、その中に僅かに混じる少年の匂い。その空間に安心しているのか、猫はふわぁと眠そうに欠伸をするとそのまま美しい瞳を閉ざしてうとうとと微睡んでいた。いつもと同じ光景である。
とにかく町外れにあるこの教会が古びていることは確かで、歩く度きしきしと木の板が鳴き声を上げる。定期的に掃除はされているものの、高いところの埃まではどうしようもないらしく窓から差し込む柔らかな光が空気中の埃を反射してきらきらと落ちていく。
教会という神聖な空気に漂う光の粒はふわふわと僅かな風にも反応して、建物のあちらこちらに漂っていた。
そう、古びていてもここは教会なのだ。
「全く…大体町からそんなに離れたとこにあったら俺の商売もままならないじゃんか」
「みゃあ」
「んだよ。お前も俺が極貧だとか思う訳?」
「………」
「そこは何か言えよ」
少年が足元に目を落とすと、猫はきらきらと真ん丸い瞳で少年を見返すのみだ。真ん丸いとは言っても明るいこの時間は瞳孔がきゅっと細められ、見ようによっては獲物を狙うハンターのようにも見える。
しかし少年はそんな猫の視線など気にも留めず、ふうっと短い溜め息を吐くと手元の薬草を小瓶に詰め込みだした。
少年が薬草を粗方小瓶に詰め終えた頃。コンコン、と古い木の扉を叩く音がして猫がピクリと耳を動かした。
「お、時間通りだな」
「みゃ」
少年が小瓶を手に扉を開くと、そこには上品な出で立ちをした一人のお婆さんが立っていた。更に杖をついた老婆の向こうには立派な馬車と黒服の男たちが見える。少年は特に驚く事もなくお付きの人達にも軽く挨拶をして、お婆さんを教会の中へと案内した。このご老人は町のお偉いさんであり、この少年の常連客でもあったのだ。
「こんにちは。少し早かったかしら?」
「こんにちは。全然大丈夫だよ。これ、頼まれてたやつ。今丁度出来たとこなんだ」
「あらまぁ、もう出来たの?いつも仕事が早いこと」
「まぁ慣れてるしなぁ。ばあちゃん今日はどうする?お茶飲んでく?」
「いいえ。今日は直ぐに戻らなければならないの。貴方の淹れてくれるお茶はとても美味しいから残念だけれど…また今度にするわね」
「そっか。忙しいんだな」
「少しお祈りだけしていくわ。あら、こんにちは猫ちゃん」
「………」
もう何度もこの教会を訪れている匂いに驚きはしないものの、猫はやはり少年の側から離れようとはしない。
老人の柔らかな笑顔にピクリとも反応せず、猫はただ少年の足元からちらちらとその愛らしい顔を覗かせるばかりだった。
「すみません、こいつ人見知りで」
「ふふっ、いいのよ。こうやって隠れないでいてくれるだけで大進歩だわぁ」
ふわりと微笑んだ老人は少年に断りを入れると、教会の中へ入り本当に少しだけ祈りを捧げてから馬車で去って行った。
「まぁ今日の客はこれで終わり、かなぁ」
「みゃ」
「お前なぁ…。もう少し他の人にも愛想良くしたらどうだ?」
「………にゃ」
眉間に皺を寄せて足元の猫に問うと、猫は明らかに「何で?」という意図を込めて首を傾げて見せた。ふわりとした毛並みを携えた尻尾がゆらゆらと揺れ、その僅かな風が巻き起こした埃がまた宙で光の粒となって消えていく。
「ま、お前に言っても無駄か。別にいいよ。…邪魔さえされなければ」
「なぅ」
ぽんっと頭に手を置くと、猫はもっと撫でろと言わんばかりに少年に擦り寄った。何処へ行くにもこの調子で、この猫は一日中少年に引っ付いて離れないのだ。
「ちょ、一丁前に猫みてぇなことすんなよっわわ!」
少年がそれ以上撫でてくれないことに痺れを切らしたのか、猫はぴょんと少年の肩に飛び乗った。軽やかに着地すると、今度はすりすりと少年の頬に顔を擦り寄せてくる。
「みゃっ」
「あーもうっ!ヒゲ!こそばゆい、ん?」
少年が猫と戯れているとまた、コンコンと古い扉を叩く音がする。今日はもう来客の予定は無い筈だが…迷い人だろうか。
何だろうと少年が扉を開くと、そこにはフードを深く被った背の低い老人が立っていた。顔は良く見えないが黒いローブから覗く手は皺だらけで、爪は鋭く伸びて薄黒く光っている。
「…君だけかい?」
「はい?」
「ここに住んでいるのは…君だけなのかね?」
「え、と…まぁ。そうですけど?」
「本当に?ここに腕の立つ払い屋さんが居ると聞いてきたのだが…」
「腕の立つ…薬師じゃなくて?」
少年が少し後退りポケットに手を突っ込むと同時に、急にぶわりと強い風が吹いて老人のローブを連れ去った。
「チッ、わざわざこんなトコまで来て収穫がこんなガキ一人たぁ…ざけんなよっ!!」
「やっぱりその類いか!」
老人だったソレはぐんぐんと大きくなり鋭い爪をぎらりと光らせて、思い切り振り翳すと少年へ襲いかかった。嵐のようにぐわっと風が強くなる。巻き起こる粉塵から何とか片目で様子を窺い、少年がポケットから手を出そうとした、その時。
「サワくん危ない!」
ふわりと揺れる猫っ毛に、赤く光る瞳。嵐のような粉塵の中少年の視界の端に映るのは少年より幾分背の高い男の姿だった。
「…おれのものになにすんの」
一瞬の内に少年の前に躍り出た彼がぐいと少年の肩を引き寄せる。そうして彼が目の前の化け物に手を翳した、その瞬間。
「ぐわぁっ!!!」
一瞬眩い程の青い光が辺りを覆う。
するとしゅんと風が止み、さっきまでの嵐がまるで嘘のように静まり返った。鋭い爪で少年に襲いかかろうとしていた化け物は跡形も無く、人に擬態するのに使っていたらしいボロ切れだけがひらひらと舞い落ちていく。
「やー、久々にピンチだったね!」
「いやいや、あれくらい俺一人で何とでも出来たのに…勝手に人の仕事取んなよフジクラ!」
「えぇー、だってヒトに擬態してあまつさえ俺の結界破ってくるやつだよ?危ないに決まってんじゃん。結構強めの張っといたのになぁ」
フジクラ、と呼ばれた男はそう言いながら頭を掻くと、足元に落ちていた布切れを拾い上げて燃やしてしまった。手から放たれる炎は青く輝き、一瞬で布切れを灰にしてしまう。
「だから邪魔すんなって言ったのに…」
「まぁまぁ、今回は依頼じゃなかったんだからいーじゃん?それよりサワくんが無事で良かったー!」
ぶつくさと文句を言いながら教会へ戻る少年を追い掛けて、フジクラはぎゅっと後ろからサワを抱き締めた。ヒトの姿の彼は少年より幾分背が高くて、抱き締められると少年は簡単に彼の腕の中に収まってしまう。
「だからぁ!抱きつくの止めろって、ば、重いっ!聖水ぶっかけるぞ?!」
少年がポケットから取り出した小瓶には少し青みを帯びた液体がちゃぷんと揺れていた。まぁこんな脅しがこの男に通用しないことなど少年はとっくに知っているのだが。
「だって猫の姿だとこんな風にぎゅって出来ないんだもんー!それにこれは俺には効きませーん。残念!だからぎゅってしてい?」
「だから何でそうなんの?!していいなんて言ってない!」
「しーたーいー!」
「はーなーれーろっ!」
今度は人間の姿で少年に遠慮無く頬擦りをするこの男。と、先程の化け物は実は少年の本業に深く関わりがあるモノ達である。
「もう払い屋なんて止めて俺とゆっくり暮らそうよ」
「やだ。お前に指図される筋合いはない。ってか!」
「キスしてい?」
「話聞けよ!お前いつまでここに居るつもりなんだ」
遠慮無く顔を近付けてくるフジクラの口を何とか両手で抑え込んで、もう何度目か分からない問答をした。男は口付けを拒まれたことに明らかに不服そうに眉間に皺を寄せながらも、やがて赤みを帯びた瞳を妖しく光らせて少年の手の平をぺろりと舐めた。
驚いた少年がパッと手を離すも、その手首をすかさず掴んで自身の胸へ引き寄せ彼は嬉しそうに微笑む。そうして引き寄せた少年の耳元で、どんな花の蜜よりもずっと甘い声色でその悪魔は囁いた。
「きみが死ぬまで。死んだら俺が連れてってあげるから大丈夫だよ?永遠に一緒だね!」
「何も大丈夫じゃねぇよ?!お前と契約した覚えは!ない!ってかいい加減離れ、ちょ、力つよっ!」
「なぁんて、サワくんから召喚してくれた癖にー。あ、分かったこれがツンデレだ」
「ちげぇわ!」
このサワという少年は普段は薬師として生計を立てているが、彼には実はもうひとつの顔があった。所謂「悪魔」と呼ばれる存在を祓う祓魔師である。その腕は確かなもので、依頼を受ければ依頼人の元へ赴き人々に悪さをするソレらを祓うのである。
しかし「悪魔」といえど悪さをするものばかりでもなく、少年は時には人と同じように彼らと接することもままあった。
とは言え相手は悪魔である。人々の間には悪しきモノとして認識されるそれらにも分け隔てなく接するなど祓魔師として赦されることでは勿論無く、少年の行動は人間の世界においても異端なものであった。
まだ特に行動を咎められたりはしていないが面倒事は御免被る。という訳で少年は目立つことを避け、こうして人里から少し離れた場所で細々と表向きは薬師として暮らしていたのである。
そんな少年サワの元へこの悪魔フジクラが現れたのは二、三年程前のこと。
道端で弱っていた猫を悪魔の類いと知りながらも介抱したのがいけなかったのかも知れない…とフジクラに抱き締められながらサワは思う。と言うか悪魔ならそもそもこの教会にすら入れない筈なのに、何故こいつは平気なんだろう。
猫として匿っていた時は一応教会の外で介抱していたのだが、ある日突然その猫は姿を消し、そしてフジクラとして現れた。教会の中、薬の調合のつもりで描いた陣の中から、この見目麗しい男の姿で。
それからというもの普段は猫になったりヒトになったり、どちらの姿でもサワにベッタリでこの悪魔は離れなくなってしまったのだ。まぁ薬草集めは手伝ってくれるし家事も殆どこなしてくれるし、今のところ悪さなんてしなさそうだから別にいいんだけど…。何て流されそうになっている少年だが、相手は悪魔であるということを忘れてはいけないと常に自分を叱咤していた。
そう、相手は悪魔なのだ。
そして自分は、それを祓う祓魔師である。
その考えと自分の行動が矛盾していることなど重々承知しているが、様々な悪魔と対峙してきた少年は例え悪さをしない類いのモノでも適切な距離を保つことが必要だと経験から知っていた。人間でも悪魔でも油断は大敵なのである。
そう、だから絆されてはいけない。いけないのだ。
「俺のこと、きらい?」
「え、なに突然」
「迷惑…?」
「え、えーと」
「ごめんね。俺、優しくされたのが嬉しくて…」
「うっ…」
そう、相手は悪魔、悪魔…あく、ま…。
「サワくんがそんなに嫌がるなら、ここ出てくよ…行く当ては無いけど」
悪魔も人も困ってる奴は放っておけない。それが悲しきかな、サワの性分であった。
「あーもう!誰も出てけなんて言ってねぇだろ!ほらもう、そんな落ち込むなってば」
「俺、ここに居てもいいの?」
「駄目ならとっくに祓ってるよ」
ぽんぽんと頭を撫でると、彼はもっと撫でやすいようにと姿勢を低くした。人の姿のままでも猫っ毛は柔らかく気持ちが良いので、ついわしゃわしゃと撫で回してしまう。
「サワくん、もっと…」
ふと顔を上げたフジクラの赤い瞳とぱちりと目が合ったところで、コンコンと本日三回目の扉を叩く音が教会内に木霊した。
「チッ」
「え、今舌打ちした?」
「え?全然?」
言いながらあからさまに不機嫌そうな彼を差し置いてサワはゆっくり扉を開けた。すると、今度は見知った顔が元気良く教会に飛び込んできた。
「セーンパイッ!ちわっす!」
「あ、カシくんじゃん。どしたの」
「やぁ、ちょっと注意喚起?ってか、オレらの協会から言伝てが回ってきたんでー」
突然元気良く飛び込んできたのはサワの祓魔師としての後輩、カシくんである。何とも人当たりの良い笑顔を振り撒く彼は祓魔師としてはまだまだ見習いながら腕は良いらしく、協会内でも将来有望と噂されているらしい。
「祓魔師協会から?珍しいな、なんて?」
「んーとぉ、何か最近悪魔達が大人しくなったじゃないスか?」
「あー、確かにそうかも」
「それなんスけどぉ、何か悪魔界でも超強くてヤバい奴が人間界に来てるらしいって悪魔も人間もすっげー騒いでて!そんで人間界の悪魔は怖くて変に動けないーみたいな?」
「そうなの?魔王的な?」
「や、分かんないッスけどとにかくヤバいってのは皆言ってますねー。ってことでセンパイも気を付けてください!何処に潜んでるか分かんないんでっ!」
「ほーい。了解。で、どんな奴かは分かってんの?見た目とかさ」
「えぇっとー…ちょっと待ってくださいねー」
そう言うとカシくんはペラペラと手元の紙の束を捲り始めた。一番重要な内容じゃないのか?覚えとこうよ…。なんて野暮なことは言わない。彼は祓魔師としての腕は良いが、こういった事務的なことは苦手なのだ。
ことりと机にお茶を置くと、目的のページを見つけたらしいカシくんが紙を見ながら読み上げ始めた。ズズズッと自分で淹れた薬草茶を啜りながらサワは暫し彼の言葉を待つ。自分で淹れといてなんだがやはり美味い、なんて呑気なことを思いながら。
「えー、と。特徴はぁ…人間の姿をしてるみたいッスね」
「まぁ力の強い奴ほど人に擬態するのが上手いからな」
「その人型が何でもすんごい美形の男らしくて。えーと、茶色いふわふわの猫っ毛に高い身長、赤みを帯びた瞳…」
「ふーん。………え?」
「今のところ人の姿の時の情報しか無いッスけど、そんだけ魔力が強いんなら他の生き物にも変化出来るかもッスねぇ。あ!あと青い炎を操るのが得意だとか」
「………ほ、ほう」
「とにかく、人型の時はすんごい美形らしいんで!美形に注意ッス!」
「で、それって俺より格好良い?」
「わっ、お前いつの間に…!」
カシくんが現れてから姿を見せなかったフジクラが、突然人の姿のままサワ少年の背後に現れた。少年からは顔こそ見えないが、声はまるで威嚇するような鋭さである。肩に回された手に僅かに熱を感じ、少年にはそれが少し心地好くも思えた。
「え、え、えー?!ダレ?!誰なんスかセンパイ!!」
「あ、えーと、い、居候!俺の薬師としての、見習い…みたいな!」
「へぇー!超格好良い人ッスね?!やっべぇガチの美形じゃん!」
「はは…」
それで祓魔師としてやっていけるのか、カシくんや…。美形に注意しろってたった今言ってたのは誰だったんだ。
一通りフジクラの見た目を褒めちぎると、カシくんは本来の目的を覚えているのか不安になる程明るい笑顔で去っていってしまった。
まぁ、昔っからあんな性格なんだよなぁあの子ったら…。それより。
「で?さっきの話だけど」
「あ、キスしていいの?」
「アホかちげぇよ!すごい悪魔が人間界に来てるって話!」
「そんな話してたっけ」
きょとんととぼける悪魔の顔が何だか憎らしくて殴ってやりたくなった少年だが、何とか抑えて話を続けた。それにしても見れば見るほど、先程聞いた特徴と合致する。
「はぁ…お前はそんなすごい悪魔なのか?」
「えー?俺知らない。今はサワくんの使い魔だもん」
「使い魔とか要らねーし。そもそも俺使い魔っていう概念好きじゃないって言ってんじゃん」
「そういう優しいところも好き!」
「もう何言っても無駄か…変態悪魔め」
「サワくん」
「んだよ」
「あいしてるよ」
少年へと真っ直ぐに向けられた赤い瞳は妖しく弧を描いて、柔らかく包み込むように獲物を捕らえていた。
「はーいはい。それはどうも」
その意図を知ってか知らずか、今日も少年はこの悪魔の好きにさせてやるのだった。
prev / next