古びた…いや、味のある教会の窓から差し込む光で日向ぼっこしながらふあぁっと欠伸を零す。
ふうむ、まぁた値引きしちゃって。今の値段でも、街の薬屋に比べればずっと安いくらいなのにあのお馬鹿は。
おれのご主人様は今日も馬鹿だな。ばかわいい。極度のお人好し。親切の化身。欲を好むおれら悪魔からしたらなんて稀有で不可思議な人間。人間っぽくないといえばそうかも。まぁ彼が彼である限り人間でも悪魔でも天使でも猫でもなんでも愛しいんだが、それにしても欲がない。心配。
我が愛しのダーリンの深すぎる懐に付け込んで値引きされた薬を受け取ったババアがやっと帰っていく。その「値引きされて当たり前」みたいな態度に軽く腹が立ったおれが、ちょっと悪戯でもしてやろうかなと思ったのを察知したのだろう。一瞬サワくんがキッとこちらを睨んで制止してきたのでおれはただ「にゃあ」と鳴いておくだけに留めた。
そういうところは鋭いんだから全く。次は絶対バレないようにしよう。あのババア顔覚えたかんな。
そうして誰も居なくなった教会で、おれはぽふっと人型になって彼を抱き込んだ。まだ薬師としての仕事があると怒る彼を正面から抱き締めて、諦めて動かなくなるまでじっとする。お説教には猫よりもこの格好と、無言の圧というやつが彼には効くらしい。そう、お説教です。
「まったくもう…」
「俺怒られるようなこと何もしてないんだけど。夜更かしもしてないし、別の仕事でも無茶してないし」
「知ってるよ」
おれが怒るのが大抵どんな場合か、彼はさすがに分かってきたらしい。でもまだちょっとズレてる。そうだけどそうじゃない。怒ってるとかじゃ、ないんだけど。
「じゃあなに。離してくれ…ないよなぁ…」
「うん。あのね」
「なに。ていうかフジクラ、これじゃあ顔が見えないんですけど」
「見せてやんない」
顔も見えないくらいぎゅううっと抱き締めたまま、耳元に声が届くように続ける。ちょっと速くなった鼓動が緊張してるのを伝えてきておもしろかわいい。でも今笑っちゃだめだ。これはおれの役割なんだから。
「あのね、ずっと不思議だったんだ。きみには欲がないのかって」
「あるよ?」
「食欲とかそういうんじゃないよ?もっと人間らしい欲のこと。例えばそう…承認欲求とかね」
「あると思うけどなぁ」
「ないように見えるんだよなぁ」
彼が全くの無欲でないことは知ってる。けれどそれも、大抵の人間と比べればかなり無いに等しいと、これでも長く色々な人間を見てきたおれは思う。清貧で無垢で純粋で、そういうところも彼の魅力ではあるんだけど。
だけどね。
「欲がないように見えるから、俺怒られるの?」
「…サワくんがさっき売った薬」
「…?」
「あれに似た効果の薬の、王都での値段知ってる?十倍くらいだよ。しかも、効能は断然サワくんの作ったのがすげーの」
「ほお」
あーあ、全然分かってないんだなぁ。こういう時、彼が自身の価値を正しく認識しない時。おれはとても腹が立つ。
けれどそれをぐっと抑えて、できるだけ穏やかな声色になるように努めて続けた。
「あのね、さっきの薬ね。値引きしない値段でも、王都のやつの十倍は安いわけ。でもきみはまた安くしたね」
「そりゃあだって、その方がお客さんが助かるかなって」
「それでも、あのババアはそれなりに払えるお金持ってたよ」
「関係ないよ。喜んでもらいたいじゃん」
それを聞いた瞬間、熱くなるを通り越してスッと温度が下がっていく心地がした。腕を緩めて顔を突き合わせると、おれの怒りの温度を察知したのか珍しくサワくんが怯えに似た顔をしている。いつもならすぐにおれが謝るのに。いや、まずこんな顔はさせないのに。
今はただ、腹立たしかった。何年生きたっておれはまだ、彼の前では幼いままで、感情のコントロールもままならない。怖がらせたいわけがないのに。
それでもおれはほとんど無表情で、彼を見下ろしながらひとつひとつ質問を零した。
「ねぇサワくん。あの薬を、作ったのは誰?」
「お、俺…」
「材料はどうした?」
「主に山で採ってきた…のと、街で、買った」
「そうだね。で、あの薬を作るのにかかった時間は?」
「えぇと…。分かんない、どんくらいだっけ…?」
「材料の採取を除いて、完成まで二か月と十二日と十五時間三十八分だよ」
「え、お前覚えてんの!マジか」
「マジだよ」
驚く顔もかわい…じゃないや。その顔もじっと無表情のまま見つめていると、彼も漸く少しずつおれの言いたいことが分かってきたらしい。分かってくれてたらいいんだけど。
「それできみはさっき、どれくらいの値段でその薬を売りましたか」
「え、でもまだ生活には困らないし」
「いくらで、売ったかって訊いてるんだよ」
「う…えと」
さすがに見ていられなくなって、おれは遂に表情筋を緩めた。「はああぁぁあ」と大げさなくらいに溜め息を吐いて彼の肩に凭れ掛かると、びっくりしたらしいその身体がビクッと跳ねる。もう。可愛すぎても腹が立つな…。
「あのさぁ。何億回でも言うけどきみはすごいんだ。マジで。おれの欲目とかじゃなくて、事実さ。サワくんが裕福な暮らしに興味がないのも他人のことばっか優先しちゃうのもいやってくらい知ってるつもりだよ?でもさ、自分が費やした努力とか時間とか、そういう結晶なんだ、あの薬は。あの薬だけじゃない。祓魔師の方の仕事でもよく思うけど、きみの技術はすなわちきみの努力とか試行錯誤とかそういうものの結晶なんだよ。きみのかけがえのない時間の結晶なんだ。きみの力なんだよ」
「え、あの…はい」
「分かってないな。つまりきみが安くしてもいいやって、あのババアに負けて値引きしたやつ。あれはサワくんの一部みたいなもんなんだよ。おれが何で怒ってるか、もう分かったっしょ」
「なんとなく…」
「はっきり分かってほしいんだけど?」
「ひぇっ」
あ、ミスった。つい高圧的な態度を…。思わず仰け反った身体を逃すまいとして腕に力を入れると、簡単におれの方に凭れ掛かった。脆い。細い。おれよりずっと。その存在が、このおれよりも非力な腕が、一体どれほどの努力を重ねてきたのかを知ってる。おれは知ってるし、彼自身が誰よりも知っているはずなのに。それなのに。
時に、彼は彼を軽んじる。
おれはそれが、言い表せられないくらいに腹立たしい。すごく。かなり。めっちゃ。
こんなにも素晴らしく得難く尊いものを、例え本人にだって踏みにじられればおれだって怒るよ。しょうがないじゃん、大事なんだから。分かってくれるまで何度だって怒るし何度だって言おう。怯えさせたくはないけど、彼は本当に自分の扱いが雑過ぎる。おれの何よりの宝物をそんな風に扱わないでほしい。
彼が「このくらい別に」と思ったものはおれにとってはとんでもなく大事なものだということを、分かってもらわなければ。おれだって彼のことを言えない時は多々あるけど、だからこそ補わなければ。
彼はたまに自分はいなくても大丈夫なような言い方をするけれど、それがどれだけおれを傷つけているかをどうか知ってほしい。マジで勘弁してほしい。次言ったら監禁…なんでもない。
「フジクラ…怒ってる?」
「めちゃくちゃ」
「窓、凍ってるんですが」
「…あとで溶かしとく。寒い?」
「俺は、寒くないけど…」
「けど?」
「…痛い」
「え、そんな強く抱き締めてた!?ゴメンだいじょうぶ!?」
「や、ちがくて。お前にそんな顔させてんだなーと思ったらなんか、こう…痛くて」
そう言いながら彼は自分の胸を見下ろした。彼も馬鹿だけど聡いから、そうやってちょっとずつでもいいから、自分のことにももっと賢くなってくれてるんなら嬉しいなぁ。
「ゴメンねサワくん。やり過ぎたかも。反省はしないけど」
「うん、怖かった。俺も、ごめんな。値引きは反省しないけど」
「は?」
「俺さ、ちゃんと欲あるよ。というか自分でも結構欲深いと思ってるんだ」
「はぁ?」
「承認欲求、だっけ。俺は、お前が認めてくれてさえいればそれでいいかな」
「………は」
「ゴメンな。俺はお前のこと傷つけてるのに、そんな風に俺のことで怒ってくれる度にその…嬉しくて。だから結構、自分でも…いや、なんでもない!」
「今の言葉、聞き逃すとでも?」
「ひぇ」
「分かった、言い訳は別室で聞こう。今日はもう店仕舞いね」
「え、待って待って!いや無言で抱き上げるな、フジクラ!!」
自分のことに疎くてお馬鹿で人間にしては欲がないと思ってた。なのにこの突然の素直さ、不意打ち。おれはまだまだ、彼のことを知った気になっていただけかもしれない。凍っていたらしい窓は、おれの機嫌のせいかいつの間にかすっかり元通りになっていた。まぁ窓とかどうでもいいけど。
それより今は、おれの腕の中で大人しく真っ赤になっているご主人様もといダーリンの言い訳に集中しよう。
話せたらだけどね。
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