mitei 青に堕ちる | ナノ


▼ どこまでも。

『碧い風が呼んでるんだ』

初めて会った時に放たれた言葉の意味も未だによく分からないまま、俺たちの身体だけはオトナと呼べるものへと変貌していった。

「もしも俺が人魚だったら、こんな風にしてお前と歩けなかったなぁ」

「…えと、何言ってらっしゃるのかちょっと」

「ふっ、ばぁか。例えだよ例え」

薄暗い館内をゆらゆらと柔らかな光が撫でる。身長の何倍もある水槽には無数に泳ぐ大小様々な魚の影と、長い尾を引くエイや鮫。
色とりどりのイソギンチャクがゆらゆら水中で踊る。

人工的に造り出されたこの海中には月の引力など無関係だろうに、変なの。
まるで本当の海みたいだ。

…こんなに深く潜ったことなんてないけどさ。

ぶらぶらと館内を歩き、クラゲやらペンギンの散歩やらを眺めてからもう一度この大水槽の前に戻ってきた。
もうすぐ閉館時間だからか、平日だからなのか。

辺りに人は殆ど居なくて、人工的な青の世界に俺とこいつの二人だけ。

…変なの。

急に水族館に行きたいだなんて珍しく我儘を言うもんだから幼馴染みのよしみでしょうがなくついて来てやったのに、何だかもやもやしたモノが胸をざわつかせ始める。
さっきまであんなに無邪気にはしゃいでた癖に、こいつが突然変な例えなんか出して黙るからだよ。

青が支配する、静謐な空間。
ただただ静かで、たまにぽこぽこと小さな泡が水面へ向けて上がっていく。

ちらりと、隣の幼馴染みを横目で窺う。ふわりと香る、潮の匂い。
水槽越しでも海の匂いなんてするものだったかな。分からないが、一瞬過ぎてそれが幻なのか本物だったのかを知る術は俺にはもう無い。
あるのはただ、隣に佇んでじいっと水槽に視線を向けたままのこいつの姿だけ。それだけだった。

揺らめく影を受けて水槽に向けられた眼差しは何処か少し寂しそうで、もっと遠くを…ここじゃない何処かを映そうとしているようだった。
やだな。こっちを見て。俺だけを見てて。…行かないで。どこにも、行かないで。

何でそんなこと思っちゃったんだろう。
気付くと視界がどんどんぼやけて、頬には生温かい雫が伝う感覚がした。

無意識にきゅっとすぐ側にある袖を掴む。俺は引き留めようとしたのだろうか。
おかしいな、彼は何処にも行く筈なんてないのにな。

袖の感覚に釣られて俺の顔を見た彼はぎょっとして、あわあわと涙の理由を問い質して来た。だけどそんなの分かんねぇよ、俺にも。

「あーあぁ、止まないなぁ中々」

「…う、るせっ、ひぐっ」

やばい、本当に止まらない。
悲しい訳でも寂しい訳でもまして嬉しい訳でも無いのに、身体が言う事を聞かなくて。
どこかから溢れ出して来るモノがたまたま水という形になって、それが目から溢れ出して。

止められない。いくら長い付き合いだとしても、人前で泣くなんてこと滅多に無かったのにどうして今更。

彼は俺に掴まれていた袖をそっと離すときゅっと手を繋ぎ、繋いでいない方の袖で躊躇無く俺の涙を拭き取った。
馬鹿だなぁ、汚れるから止めろよって言ったら彼はそんなことって少し微笑って、それからまた黙りこくってしまった。

「うーん…どうしたものか…」

「ごめ、も、すぐ…、ひっ、止める…から…!」

「ううん。無理しなくていいよ」

「え、…!?」

驚いたのも無理はないと思う。
繋いだ手の力が強められたと思ったら顔に触れていた手は離されて、それを寂しく思う間もなく頬にぬるりと生温かい感触。

涙じゃない、しっとり濡れた確かな温度。

彼はそのまま俺の瞼にちゅっとキスを落とすと、またいつもの笑顔で「ふはっ」っと笑って見せた。
瞳には…あぁ、俺が居る。涙で濡れてぐちゃぐちゃのみっともない顔だけどちゃんと、そこには俺が居る。

安堵したのも束の間、握られた手の湿っぽさと眼前で悪戯に笑う魔性の笑みが俺の羞恥心を呼び起こさせた。

「うん。しょっぱい」

「舐め、るとかおま…っ!う、嘘でしょ…?」

「え、やだった?」

「え、いやいや、え、嫌っていうか…。普通する…?」

「フツウは分かんないけど、俺はする」

「…誰にでも?」

「だったらどうする?」

「最低だぁ…」

げんなりした顔でそう返すと、幼馴染みは少し不服そうにムッと薄い唇を尖らせた。

「しないよ。もっと嫉妬してくれるかと思ったのに」

「しっと?なんで?」

「何でもなぁい。お前ってホント鈍いのか聡いのか分かんないね」

「褒められてるのか貶されてるのか分かんない…」

閉館時間を告げる館内放送が響く。早く出なければ。
そう思って手を振り解こうにも、何故だか強められる指の力がそれを赦さなかった。

まぁ残っているのは俺達だけみたいだし、しょうがないからこのまま出口まで進むか。
普段他人に触られるのをめちゃくちゃ嫌がる癖して俺にだけは平気なのが不思議でならない。変なの。

水族館を出てすぐ近くの海沿いを歩いた。勿論手は繋いだままで。

日が暮れる。もうすぐ空にも、深い青がやってくる。
晴天の真昼間よりもずっとずっと深くて暗い、だけど俺の好きな青が世界を包む時間。

「寒い?」

「まぁ、ほんのちょっとだけな…」

水族館に人が少なかったのはシーズンじゃなかったっていうのもあるかもしれないな…。
まだ完全に冬という訳じゃあないけれど、北風が吹くと少し冷える季節。

海沿いは特にいつもどこかからの風を運んできていて、ずうっと同じ場所に突っ立っていると流石に結構寒いかもしれない。
だけど歩いていれば、少しはそれもマシになるだろう。独りじゃなければ尚の事。

「やぁっと泣き止んだな。お前のあんな泣き顔、初めて見たかも」

「…なぁ、どっちがしょっぱかった?」

「うん?」

「さっき舐めた俺の涙と、お前の生まれ育った、…海と」

「うーん…」

彼は少し思案した後、立ち止まって俺を見た。
手を繋いだままだから、釣られて俺も立ち止まる。長いすらりとした足が影を伸ばして、俺の影と重なった。

彼の後ろで沈みゆく夕陽が僅かに微笑んだ、気がして。

「しょっぱいのは、多分海。でも…」

「でも?」

「苦かった」

「なにが?」

「お前のさっきの涙はちょっと苦かったから、何ていうか…悪かったと思う」

「何で謝るんだ?」

「苦い涙ってことは苦い気持ちだったってことだから。そうじゃない涙ならもっと、甘かったりするから」

「えと…お前は涙ソムリエか何かなの?涙ってしょっぱいだけじゃないの?」

「ないよ」

「俺の涙は、苦かったの?」

「うん。さっきのはね。だから、ゴメンな。俺が不安にさせたんだろ」

ふわりと潮風に揺れる髪が、少し遠慮がちに彼の瞳を隠しては見せる。カーテンみたいだ。
邪魔そうだから切ろうってずっと言ってるのに、まるで聞きやしないんだから。

そのカーテンから覗く光にどれだけの破壊力があるか、まるで知りもしない癖にさ。
嗚呼、やっぱり前髪は伸ばしたままで居てもらおうか。カーテンみたいに隠しておいて、知っているのは俺だけでいいや。

なんて、変なの。
俺もこいつも、出逢った時からずっと歪なままなんだ。

ふわりと香った潮風は、今度は違いなく本物だ。
ぐいと寄せられた手もこれでもかと密着する身体の温度も、今度は瞼じゃなくて唇に落とされる生温かい温度も。

全部全部本物だ。俺と同じ。
本物の証だ。

「ねぇ」

「うん?」

「人魚って、やっぱり肺呼吸じゃなくてエラ呼吸なのかな」

「両方だよ」

「そうなの?じゃあ両生類になるのか…?」

「なぁんかやなんだけどその分類のされ方…複雑だよ」

「何でだよ、蛙に謝れ」

「今は両生類じゃありませーん」

「ニンゲンってなんだっけ…何類だっけ」

「哺乳類では?」

「天才か!」

「お前今日いつも以上にアレだな」

「アレってなに」

「アレはアレ」

「アレか…」

アレならしょうがないな。アレってなんだろ。まぁいいか。

初めて出逢った時はあれだけ儚かった砂浜に佇む少年は、いつの間にかこんなにも大きくなっちゃって。
何だか親のような気持ちになって、少しだけ背伸びをして幼馴染みの頭を撫でた。

大人しくされるがままにしている涙ソムリエの彼は俺の気が済むとすっと背筋を伸ばして、べっと舌を出す。
それにちょっとムッとして俺も同じように舌を出すと、今度は頬を抓られてしまった。ちょっと痛いじゃないか馬鹿。

そうこうしている内に夜が来た。
深い藍と小さな小さな宝石をたくさん携えて、今宵も静寂と杯を交わすのだろう。

もう一回、身体を引き寄せられる。
抵抗することも無くただ彼のしたいままに身を任せていると、耳元に薄い唇が寄せられて熱い息がかかった。

ぞわりと全身が粟立ったけれど彼は気にする風でもなくて、ただ淡々と喉を震わせて言葉を紡ぐ。
この距離だから、俺の鼓膜がその愛おしい音を拾うのにそう時間は掛からなかった。

「ねぇ、俺ね」

「うん」

「本当はお前を連れて行こうと思ってたんだよ」

「俺を…?どこに?」

水族館なら今日連れて来られたけど。

「俺の、世界に」

「お前の…世界」

「深い深い、青が包む世界に」

「それって俺も、りょうせいる、んっ!んぅ」

「ん。はぁ…。でもこっちに来て良かった。こっちも似たようなものだけど、温度はこっちの方が心地が好い」

「お、前…。わざわざ口で口塞がなくたっていいじゃん…」

「こういうの、キスって言うんだけど。知ってる?」

「馬鹿にすんなよ!それくらい知ってるわ!」

「ふっあはは、ふふ」

「もう…ホントに馬鹿だな」

本当に。馬鹿だよ。

深い深い青の世界。それはこっちの夜と似たようなものなのだろうか。
似ていても、全く違うものなんだろうか。

郷愁が彼の心を覆っても尚、ここに留まる理由。
それ程の理由に、俺なんかがふさわしいかなんて分からないのだけど。

「なぁ」

「うん?」

「お前と居られるなら、どっちの青い世界も心地好いよ」

「…うん」

青に堕ちる。
手を繋いだまま、何処までも。

ただその体温を感じて、その温度だけを道標にしながら。
これからも。きっと二人で。

prev / next

[ back ]




top
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -