正直、人の多いところは好きじゃない。
街中を行き交う人々の足元をぼんやり眺めながらそんなことを思う。
がやがやと聞こえてくる色んな人の話し声や足音、どこかの広告の音楽や車の音。
そんな望んでいなくても勝手に耳に入ってくる雑音たちを消すように、俺はイヤホンで耳を塞いだ。
邪魔なノイズを全て掻き消して、あの声だけ。あの清流のような響きだけを俺の世界に閉じ込める。
すぐ隣で二人くらいの女が俺に向かって話し掛けている気がしたけれど、面倒だから気付いていないフリをした。
去り際の香水のキツイ匂いが鼻につく。臭い訳ではないが、タバコの匂いと変わらなくて結構不快かもしれない。
汚泥の中にいるみたいだな、なんて思う俺の方がきっとずっと汚くて醜いんだろう。
それでもここに居る理由。
俺の全神経、全筋肉を動かす理由なんてあの日からたったひとつだ。
しかしそう何度も休日にばったり、なんて事になったら流石の彼でも引くかもしれない。
彼は鈍感だが、馬鹿じゃない。
いや、お人好しが過ぎるという点においてはそうも言えるかもしれないけどさ…。
少しでも彼の近くに居たいだけ。
それだけで、イヤホンまでしながらこんな道端に座っている俺なんかに気を許してしまう程度にはやっぱり彼は馬鹿だ。
ぼうっと何をするでもなく人混みを眺めていると、やがて道の向こうから小さな女の子が走ってくるのが見えた。
後ろから声を掛けながら追いかけてくる女性はあの子のお母さんかな。
「やったー!くれーぷ!くれーぷ!」
「こら待ちなさい!走っちゃ危ないでしょ!」
クレープらしきものを手に持った少女は嬉しそうにはしゃいでいて、小走りで俺の前を通り過ぎていく。
何となく目で追っていると、子供が人にぶつかってしまった。
転んではいなかったが、持っていたクレープがぶつかった奴のズボンにそれはもう綺麗にクリーンヒットした。
こんな漫画みたいなことあるんだなぁなんて呑気に考えていると、イヤホンの中にまで進入して来るような怒鳴り声が。
「何しやがんだこのガキ!!」
「ひっ」
どうやら小さな女の子がぶつかってしまったのは少々ヤンチャそうなグループの一人で、子供相手に怒鳴り散らしていた。
すぐさまさっきのお母さんらしき人が駆け寄ってきて、子供を自分の方に引き寄せながら何度も何度も謝っている。
どこ見て歩いてんだとか服を弁償しろだとか、相手がヤクザでもいかついムキムキのマッチョでも彼らは同じように言えるのだろうか。
そういう訳では、無いんだろうな。
見ていて気持ちの良い光景じゃない。
こんな時彼なら…なんて、考えるまでもないか。
「だからさぁ!謝ってすむとでも思ってんの?!どうしてくれんのこの服!高かったんだぞ!?」
「…謝ってすまないなら、どうなんの」
「あぁ?!んだお前?」
「子供のしたことじゃん。そんなに怒鳴ったら怖がるだろ。というか五月蝿い。そっちが謝れ」
「はあぁっ?!何で被害者の俺らが謝んねぇといけないんだよ!はっ、正義のヒーロー気取りか?こんのクソガキが」
何か…めんどいな。何でこういう奴等はこういう物言いしか出来ないんだろう。
同じように義務教育で国語を習ってきた筈だよなぁ。
…めんどくさいなぁ。
「おかあさん…」
「よしよし。大丈夫だからね」
ふと振り返ると先程の親子が身を寄せ合っている。何だろ、もやもやするな。
苛々?違うな…。ムカムカ、かな。
自分の感情のことなのによく分からないが、良い感情でないのは確かだな。
確かに周りをよく見ずにぶつかってしまった事は良くないかもしれない。だけどもう十分過ぎるほど謝ったし、怪我をさせた訳でも無い。
ましてやこんなに幼い子供相手に怒鳴り散らす大人…に見える人間達。
幼いのはどっちだなんて、問うまでもない。
「おい!しゃしゃり出てきたってことはお前が責任取ってくれんのか?!あぁっ!?」
「…るせぇな。そんな文句言ってる暇があんならさっさとズボン洗ってこいよ。高かったんだろ?その布切れ」
「おい、挑発してんのか…?」
「事実だろ。もう十分謝ったんだからさっさと失せろよ」
「こっちは服代弁償してくれっつってんだよ!」
胸倉を掴まれぐいっと服を引っ張られた。
もうめんどくさいもいいところ。
何事かとちょっとずつ野次馬も集まってきて、正直柄にも無い事するんじゃなかったかななんて…。思わないけどさ。
放っておく方が気持ち悪いからまぁ、しょうがない。
「あぁ、もしかして服も自分で洗えないとか?しゃあねぇから俺が洗ってやろうか。ちょうどそこに川があるなぁ…」
「脱ぐのも面倒ならアンタごと沈めてやるよ」なんて。そんな冗談を引き寄せてきた男の耳元でぼそりと呟くと、パッと手を離された。
別にやろうと思えば出来るけど、そんな事しないよ。ドブ川って臭ぇし。
それにしてもこういう輩って、どうしてすぐ暴力に訴えようとするんだろうな。
まるで泣くことで大人の気を引こうとする赤子みたい。
…あの頃の、俺みたい。
目の前の数人のグループを見るとも無く見つめる。興味が無いものは皆同じに見えるな。
きっと温度の宿っていないだろう俺の目を見た途端、男の表情が変わる。あぁ、知ってるこういうカオ。
何度も見たことある。
怯えたような、恐怖に塗り替えられていく男とその後ろの仲間達の表情。
俺そんなに怖い顔してるのかなぁ。こいつらに対して別にキレてる訳でもないし「めんどくせぇな」ぐらいにしか思っていないのに。
自分じゃどんな目してるのか分かんないや。
その内一人がひそひそと仲間に耳打ちして、それを聞いた全員の顔が一斉に俺を見てまた青褪めた。これもデジャヴ。
正直見飽きた。
まぁでもこういう時は、俺のネームバリュー?も便利だなとは思う。
…ちょっとだけね。
そろそろと後退りし、何も言わずにその場からさっさと立ち去ろうとする男達。その内の一人、一番五月蝿かったズボン野郎の襟元を引っ掴んでぐいと引き止めた。
首が絞まったのか、一瞬変な呻き声がしたが気にせず俺の方に引き寄せる。
さっきまでの威勢はどこ行ったんだってくらい、縮こまってビクビク怯えてるな。
「ひいっ!」
「なぁ、もしかして俺のこと知ってんの」
「う、噂だけ…」
「あっそ。そんな事より、まだ謝ってない」
「え、あの…すいま、」
「俺にじゃない」
「すいませんでしたぁっ!!!」
男は親子に向かって思い切り綺麗なお辞儀をすると、全速力で先に逃げていった仲間の後を追い掛けていった。
何か疲れた。
もう今日は帰ろっかな。さっきの彼に見られてたらどうしよ。ちょっと嫌かも…。
「お兄ちゃんお兄ちゃん」
俺もその場から立ち去ろうとすると、くいと服の裾を引っ張られて釣られてしゃがみ込んだ。
すると先程の女の子がきらきらした目で俺を見ている。
「…なに」
「ありがとっ!すっごくすっごくカッコ良かった!!」
「ありがとうございます!本当に!どうお礼したらいいのか…」
すぐ側では母親がまた深々と頭を下げている。もういいのに。
「や、何もいらないです。勝手に割って入ったのこっちなんで」
もう帰ろう。そう思って立ち上がろうとするも、女の子が引き止めてくる。
「まって!わたし将来お兄ちゃんのおよめさんになる!!」
「…は」
「だってさっきのお兄ちゃん王子さまみたいだったんだもん!ぜったいお兄ちゃんとケッコンするの!」
「おうじさま…」
とてもお子様には聞かせられない様な暴言を吐いた気がするんだけど…。
人を川に沈めようとする奴は王子様とは呼べないよ?とは…言えないな。
「ね、いいでしょ?おねがいっ」
きらきらした眼差しで服をぎゅっと掴んで、上目遣い。この子はこの齢でもう既に「女の子」なんだなぁ。
まぁ、だから何だという感じだが。
「だめだよ。俺にはもう決まったひとがいるから」
「えぇ!やだ!」
「ごめんね。だけど君にはもっといいひとがこれから見つかるよ」
「…お兄ちゃん、そのひとのことすきなの?」
すき…。すき。
言葉は便利だけど、それだけじゃ不十分で頼り無い。
彼への気持ちを「すき」のたった二文字で形容するには余りに心許なくて、それだけじゃ表しきれないくらい俺が彼へ抱くモノは醜くて、尊くて、憎らしくて愛おしい。
それでも他に上手い方法が思い付かなくて、俺は今日も拙い言葉を紡いで彼への想いを綴るしかないんだ。
「うん。すき。すごくすき」
「とっても?」
「とーっても。すきじゃ足りないくらい」
「じゃあ、だいすきなんだね!」
「うん。いっぱいすきだよ。だいすきなんだ」
すき。
だいすき。
…あいしてる。
どれも間違ってはいないけれど、やっぱり彼を語り尽くすには俺の語彙力が足りないなぁ。
ふと見ると、座り込んで俺を見上げる少女の隣で母親らしき女性が口元を抑えて頬を赤らめていた。
何だと思いつつ少女に視線を戻すと、少し残念そうな、しかしどこか嬉しそうな色を浮かべた目が俺を見ていた。
「…じゃあお兄ちゃんのことはあきらめる。そのかわり、お兄ちゃん。そのひとのこと幸せにしてあげてね」
「俺に…出来るならね」
幸せに、か。
したいなぁ。出来れば俺の手で。
いや、叶わなくとも…望むくらいは。
そうして笑顔でブンブン手を振る少女を連れ、親子は去って行った。
俺はそれに無表情でひらひらと手を振り返しながら、これでやっと帰れると踵を返す。と、バチッと電流が繋ぐみたいに恋焦がれた瞳と目が合った。
その一瞬で心臓が動き出して、身体が熱を持って全身の細胞が叫び出す。
…おかしいな。
さっきまでも心臓は動いていた筈なのに。
「びっくりしたぁ。お前って子供好きだったっけ?」
「さ…わくん。いつから見てたの?」
まさかさっきの、見られてないよな…?
平静を装って尋ねてみるも、心の中は焦りと不安と嬉しさでごちゃごちゃだ。
俺の過去のこと、彼はもう知っているけれどそれでもやっぱりああいう俺は見られたくない。
昔に戻ったみたいな、人を怯えさせてしまうような俺を…きみにだけは出来る限り見られたくないんだ。自分から近くに来ておいて馬鹿な話だけどさ。
買い物が終わったのだろうか。
手からビニール袋を下げた彼はきょとんと首を傾げると、記憶を辿り出した。
…無理あざとい可愛いぎゅってしたい。
「えーと、店から出てきたら何か人だかりが出来てて、そんでよく見たらお前に似た奴がちっさい子と話してるなと思って、来てみたらお前だった」
「話してるって」
女の子と話してるところからってことかな。ってことは、あのチンピラとのやり取りは見られてない、か…。うん、セーフ。
「何話してんのかまでは聞こえなかったけど、お前すっげぇ幸せそうに笑ってたからさ。そんなに子供好きなのかと思って」
「え、俺笑ってた?」
「え、無意識だったの?」
「うん、まぁ、うん…」
「えぇ、マジか」
「マジ」
そんなに幸せそうな顔してたのかな。
やっぱ自分じゃ分かんないや。
「ってかあの子めっちゃお前に懐いてたじゃん。お前ってあんな小さい子にもモテるんだな。変態なのに」
「うん。求婚されちゃった」
「嘘」
「本当。…ね、どうする?」
「何が?」
「俺、王子様なんだって」
「まぁ…見た目だけはな」
「俺があの子をお姫様にしちゃったら、澤くんどうする?」
ちょっとした悪戯心で問うと、意外にも彼は真剣に考え込んでしまった。
これはもしかして…期待しちゃっていいのかな。相手は幼い女の子だけど、ほんの少しだけでも嫉妬してくんないかなぁなんて。
眉間に皺を寄せている姿も愛おしい…。
ぎゅってしたい。
そわそわしながら返答を待っていると、やがて彼が口を開いた。
「うーん…。とりあえずこいつは変態だぞってことだけは伝えなくちゃなぁ」
「ふはっ、考えた結果がそれ?」
「何だよ。重要だろ」
「それだけ?」
「それだけ、とは?」
何だ、ちょっとは妬いてくれるかと思った。まぁあんな小さい子相手だし澤くんだし、無理な話かもしれないけどさ。
「ねぇ澤くん」
「何かな藤倉くん。…いや、王子様か?」
「ふふ、そう。俺王子様なの。俺ね、今日ちょっと疲れちゃった。…撫で撫でして」
「撫で撫でって…王子の強請ることじゃねぇじゃん。やっぱ犬じゃん」
「よしよしして」
「よしよしって…ほいほい。ちょっと屈め」
辺りに人が居ないことを確認してすぐに俺の要求に応じてくれる彼。
雰囲気で俺が本当に疲れていることを察してくれたからなのかそれとも本当に馬鹿なのか。
こんな事をさらりと受け入れてくれる程度には、彼は俺に気を許してしまっている。
そうして素直に屈むと、くしゃりと頭に下りて来る愛しい体温。
遠慮無くわしゃわしゃ撫でて来るその感覚もやっぱり気持ち良い。
やっぱ俺は王子様っていうより、澤くんの犬がいいなぁ。毎日こんな風に撫でて欲しいなぁ。
たまーに噛みついちゃったらゴメンね、飼い主さん。
俺を撫でる手が止まったので顔を上げると、凛々しい黒目が俺を見ていた。ずっと見ていたいけど、心臓に悪くてずっと見ていられない。
屈んでいた背を伸ばして、気付けば俺は咄嗟にぎゅっと望んでいた体温を腕の中に閉じ込めてしまった。
「ちょっ、ここ一応外!」と軽く抵抗はされるが、やがて諦めたかのような溜め息が耳元で聞こえて彼が脱力する。
本気で嫌がられたらこんな事しないよ。
やっとぎゅって出来た。まだ足りないけど。
前言撤回。
犬じゃ鎖骨が無くてこんな風に抱き締められないから、やっぱり俺はこの形でいい。
彼と一番多く触れ合える、言葉を交わせるこの歪な形のままでいい。
王子様でもお姫様でも平民でも、きみとこうしていられるならなんでもいいんだ。
「…さっきのお前、最高にカッコ良かったよ」
「え」
安心して油断していると、ぼそりと呟かれた気になる一言。やっぱり彼は馬鹿じゃなかった。
「ま、ちょっと…いや結構顔怖かったけどな」
「あー。…見てたのかぁ」
「やなの?カッコ良かったんだからいいじゃん。やっぱ変態だけど藤倉は王子様なのかもな」
そう。誰かさん限定のね。
そういう代わりにぎゅううっと腕の力を強めてやった。
カッコ良いって言ってくれたから、とりあえずはまぁいっか。
「…相手も王子様なんだよ」
「…何が?」
「なんでもない」
お姫様じゃない。
俺なんかよりずっとずーっとカッコ良い、強くて優しくて、馬鹿なのに馬鹿じゃなくて、どこまでも鈍くてその癖繊細な、愛しい俺の王子様。
俺だけの、王子様。
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