「うわぁ…思ってたより普通だなぁ」
「ふはっ!何を期待されてたの俺」
「や、だって」
正直もっとお洒落な部屋かと思ってた。
彼に案内されて入った部屋はマンションの最上階といえど高級マンションとかでは決してなく、普通に普通の大学生が一人暮らしするようなエレベーターも無いマンションだった。
建物自体は特段綺麗という訳でも汚いという訳でもなく、本当に単身者向けの、大学からそう遠くないマンションだ。
外観は僕の住んでいるマンションとあまり変わらない。
そして彼の言う通り、僕は一体何を期待していたのか。
お洒落で格好良い彼みたいな人が住む部屋なのだから、勝手にモデルルームのようなスタイリッシュな部屋を想像してしまっていた。この偏見はよろしくなかったな、と少し反省する。
しかしきちんと整頓はされてるな…。本があちこちに山積みで今にも崩れ落ちそうになっている僕の部屋とは大違いだ。
ここでは本はきちんと本棚に収められ、窓際には小さな観葉植物もあって小ぢんまりとした落ち着いた空間だった。
しかも窓は大きくとても日当たりが良さそうで、単純に住み心地は良さそうだなと思う。僕ならきっと同じ間取りでも今と同じくごちゃごちゃにしてしまうだろうな、という要らない自信があるけれど。
「コーヒーと紅茶どっちがいい?」
「え、あ、お構いなく」
「俺も自分の淹れるから、そのついで。で?」
「じゃあ、紅茶で…」
「りょーかいっ」
機嫌良さそうにキッチンでお茶を淹れてくれる彼の気配を感じながら、僕はそわそわと辺りを見回した。
ベッドを背中のクッション代わりにして、目の前にはローテーブル。その端っこにはちょっとだけ大学のプリント類が積み上げられている。
そしてちらりと壁際に目をやれば、組み立て式らしい背の低い棚があった。引き出しの代わりに百均で手に入るような小さなケースが積み上げられていて、透明で中身が見えるものとそうでないものがある。
ちらりとキッチンに視線を移すと、彼の姿が見当たらない代わりにガサゴソと何かを探す音が。恐らくお菓子か、軽く食べられるものでもしゃがんで探してくれているのだろう。
そうしてまた視線を壁際の棚に戻すと、ある小さな箱が目に入った。それはどの引き出しにも収まっておらず、一見して何の箱か分からなかったが…。
「コンタクト…?」
彼は目が悪かったのか?それとも、もしかしてあの瞳の色はやっぱり…。
しかしパッケージをよくよく見ると、寧ろその真逆だった。
「お茶淹れたよー。ゴメンね、適当なお菓子こんなもんしか、」
「あ、ごめ、勝手に」
気付けば僕は勝手にその箱に手を伸ばして、まじまじと眺めていたのだ。
「あーそれね。高校の時のやつだ」
「…え?」
何でもないことのように彼がさらりと言った。ローテーブルに丁寧にカップを置くと、ぐんと僕に近寄って箱を握る手に自身の手を重ねた。
いつも以上に距離が、近い。
「隠してたの。高校まではね。まぁ結局目に合わなかったりもあって途中で止めちゃったんだけどさ」
するりと撫でられた僕の手が持っていたのは、コンタクトが入っていたらしいパッケージ。紫じゃなくて、黒色の、カラーコンタクトだった。
「もしかして…コンプレックスだったの?」
「んーん。別にそういう訳じゃあないんだけど…何となく。珍しがられるのにちょっと疲れちゃって」
「ごめん、僕、何にも知らないで…」
「何できみが謝るの。別に何てことないよ」
「でも、え、ちょっ」
彼が話す度耳元に息がかかる。それだけでも擽ったいのに重ねられた手は離されるどころかきゅっと握られて、コンタクトの箱を置いても離されなかった。
いつの間にやら後ろから抱き締められる形になって、肩にぽすんと頭を預けられる。
…友達の距離ってこんなにも近いものなのか?
慣れない状況からか心臓がいつもより少し速く脈打つけれど、その鼓動をより速めるように握っていない方の手でぎゅっと抱き寄せられた。すりすりと、肩に預けられた髪が摺り寄せられてそれも擽ったい。
何、何だこの状況………?
僕がおかしなことを聞いてしまったせいなのか?
「何てことない」って彼は言ったけれど、本当はそんなことなかったんじゃないのか?
じゃないとカラコンまでして…。
あれ、でも…。
思い出して辛くなるような事なら、何でわざわざこんな目に付くところに置いてあったんだろう。
まるで見つけて欲しいとでも言わんばかりに。
「…やっぱり覚えてないかぁ」
「えと…何を?」
「んーん。こっちの話」
「そう…?っていうかあの、この体勢は…」
「あぁそうだね。これじゃあ顔が見えないね?」
「ふぇっ?!」
漸く身体を離してくれたと思ったら、背中に柔らかい感触が。視界がぐるんと回って僕の目はいつの間にか壁際の棚じゃなく彼だけを映していた。
押し倒され…てはいない。だけど、殆ど似た様な状況。
背中に感じる柔らかさは、彼がいつも寝起きしているベッドの感触だ。そのベッドを背中のクッション代わりにしてラグに座る僕と、その上に覆い被さるようにして僕を見下ろしてくる彼。
というか正面に回っても、やっぱり近いな…?寧ろさっきよりも近い。これが友達の距離なのか?いやでも、これは流石に…近いな。
ふと細長い指が僕の頬に伸びてきて、親指の腹でするりと涙袋の辺りを撫でた。うーん…これも擽ったい。
否応無く絡み合う視線は解けそうになくて、見上げたアメジストにはいつも通りの無邪気さは感じられなかった。
恍惚としたような、けれどどこか寂しそうな…そんな複雑な感情が入り混じった瞳。それからあの時垣間見えた、妖しい光が強くなった。その瞬間。
「…ん」
「ん?!な、んぅっ」
唇に押し付けられる意外に固い感触と、熱過ぎるくらいの熱。
ここまでくれば流石の僕でももう、これが友達同士のすることじゃないことくらい分かってしまった。
離される瞬間に舐められた唇が自然にわなわなと震えて、顔には一気に熱が集まって。今僕がどんな顔をしているのか自分でも分からない。
だけど目の前の彼は無表情で、僕はその姿にどこか薄暗い雰囲気を感じ取って背筋がぞわりと粟立った。
「くち、開けてくれてもよかったのに」
「ちがっ、じゃなくて!何でこんなっ、こと…」
トンと軽く押すと、彼の身体は案外すんなり離れてくれた。だけど表情は暗いままで、どこか不満気だ。
何で、僕何か気に障ることでもしたのか?やっぱり、コンタクトのこと…?
ぐるぐるする思考にいつもよりずっと低い声音が語りかける。それだけで身体中の力が抜けてしまいそうな、不思議な力を持った声。
それは甘くもなく苦くもないのに、ただ心地好く響いて僕の鼓膜を刺激する。
「…あの話」
「ん?」
「同意ならいいって、言ったやつ」
「…んん?」
「ホントに、いいの?」
「えと………何が?」
「ねぇ、いいって言って」
「だから、何を…」
「言ってよ」
「そんなこと言われても…何のことだか分かんないよ」
嘘だ。本当は分かってる。
この状況も、さっきの口づけも、そして何より、僕を見る情欲を隠しもしないその瞳の意味も。
そんなものを見て何も気がつかない訳なんてないのに、それでもどうしたらいいのか分からなくて。けれど近付く温度はどうしようもなく僕の鼓動を煩くさせる。
「いいって言ってよ」
「…やだ」
「なんで」
「なんでも」
「なんで。みんないいって言ってくれたよ」
「…は?」
「俺が聞いたら、みんないいって言ってくれた。…だけどやっぱりダメだね。紛い物じゃ替わりにもならないんだ」
「何…言って…?」
彼が話しているのは僕と同じ言語の筈なのに、何を言っているのか今度こそ分からない。
いつもはあれほど眩しいくらいに輝く宝石にも、今は月のない闇夜が訪れたように一点の光もない。
背筋がぞわりと粟立ったまま何かを警告しているけれど、彼の両腕に閉じ込められて逃げ場が無い。
何を…何を言ってるんだこいつは…?
「ねぇおねがい。やっぱり本物がいいよ。いいって、言って」
「本物…?」
「きみが見てくれなきゃ俺は…」
「ちょっ!」
離れていた身体がまた近付いてきて、遂にゼロ距離になった。両腕で背中と腰を固定して僕の耳元に寄せられた唇が音を紡ぐ。
「…ここに居るのに、居ないみたいだ」
「えっ」
何だか聞き覚えのある言葉…。
熱い息と共に耳に侵入してきたその言葉は魔法みたいに僕の身体を痺れさせ、そして引き出しを開けた。遠い記憶の片隅にある、古びた記憶の引き出しを。
何かを思い出しかけてまた、身体が離される。と思ったらすぐに顔が近付けられて、何かを言う前に唇を塞がれた。驚いたままだった僕の咥内に今度は簡単に熱い舌が侵入してくる。
「もっと、開けて…」
「ん、ふぁっ、ちょ、」
「ふっ、かわいい…」
「や、やめ、あ…ふぅ」
熱い。苦しい。息の仕方が分からない。
なのに身体の中心がぞわぞわする…。
彼の舌が逃げようとする僕の舌を捕まえて、絡み合い、離されたと思ったら今度は舌を吸われて…。溢れる唾液すら全て舐めあげられては口の中に戻され、飲み込まされてしまう。
口の中だけじゃなく全身が熱くなってきて、だけど頭の中だけは冷静でいようとして…理性を保とうと必死だった。
それでも駄目だ。こんなの知らない。
僕が、内側から壊れていくみたいだ…。
止めて欲しくて縋る様に彼の肩を握り締めるけれど、まるでもっと欲しいと強請っているみたいになってしまう。
怖い。
嫌じゃない自分が、この先を受け入れてしまいそうな自分が怖い。
触れて欲しいのに、触れて欲しくない。
「欲しい…もっと…」
「や、だ…!んぅう、」
「んっ、やなの?なんで?」
「だっ…て!」
ドンと強く肩を押すと、また案外簡単に身体が離れていった。唇と唇を繋いでいた銀糸が細くなって、プツリと切れる。
彼は細長い指でそれを躊躇無く掬って、舐めとった。
彼の纏う雰囲気にいつもの無邪気さなんて欠片も無い。
そこに居るのはただ一人の男だった。
いやらしく唾液を舐めとって僕を見下ろす瞳は、やっぱり何度見ても同じ色。
僕に見て欲しいと言ったその瞳には、怯えた顔の情けない男しか映っていない。
今の僕の瞳に映る君は、君にはどんな風に見えているの。
欲しいって何故?何故、僕なんだ。
どうして僕だけをその瞳に閉じ込めようとするの。
「…俺のこと、きらい?」
「嫌いとかじゃ、ない」
「どうしてもだめ?」
「…だめ」
「いや?」
「…い、………やだ」
そう答えるしかなかった。
僕は自分を守ることを選んだのだ。
だって受け入れてしまえば、その先に何が待っているのかなんて想像も出来なかったから。
何もない暗闇に飛び込む勇気など、僕なんかが持ち合わせている訳がなかった。
そして何より…分からないまま流されるのが嫌だったんだ。
彼の本心を、呟かれた言葉の意味を何も知らないままで流されるなんて…嫌だった。
僕に拒否された彼はやっぱり無表情で、けれど瞳からはさっきの妖しい光どころか一切の光が消えていた。
「…そう。そっか。嫌なことしちゃってゴメンね」
それでも僕を気遣う声音は穏やかなまま。
壊れ物でも扱うように一度だけするりと頬を撫でると、その手はすぐに離されてしまった。
「あ、待って、話をっ」
「…じゃあね」
そっと立ち上がった彼はそれ以上触れてくることもなくて、玄関へ僕を案内するとさっさと部屋から追い出してしまう。
パタンと扉が閉まるその瞬間まで彼の目は髪に隠れて見えなくて、僕は困惑を隠せないまま暫くその場から動けなかった。
prev / next