「あれ、今日はまた違う本なんだ?」
「…うわぁ」
また来た…。顔を上げるまでもなく、そこに居るのは間違いなくアメジストの彼だろう。
誰とも関わりを持とうとせずいつも本に噛り付いているこんな陰気な僕に嬉々として話し掛けてくる物好きなんて、たった一人しか思い浮かばない。
それにしても今日はいつもと場所を変えたのに、何でまた当たり前のように僕を見つけては話し掛けてくるんだろう…。
いや、いくら場所を変えたって同じことか。
ある時はあまり使われない空き教室の窓際で。またある時は人通りの少ない廊下の端にある共有スペースの小さな机で。
そして今日はお昼を過ぎてこれまた人が少なくなった学食の端っこで。
誰にも邪魔されない場所で、僕はひっそりと読書をして授業の合間を過ごしていた。
別に寂しくはないし、きゃいきゃいと騒ぐのが苦手な僕は寧ろこの時間が何とも心地好くて好きだった。
なのにいつからか突然このひとりきりの結界の中に彼が入り込んで来て、こうして僕を見つける度に興味津々に話し掛けてくるようになったのだ。
何の本を読んでるの、名前は何て言うの、いつも何処でご飯を食べてるの、どの授業を取ってるの、サークルは、趣味は、家はどの辺、好きな色は、などなど…。
いつも構内で見かける彼は人だかりの中心に居て、言うまでもなく目立っていた。
ただそこに居るだけで目立つ容姿な上にコミュ力が高くていつも輪の中心に居る。そんなリア充がどうして僕みたいなのにこうも構うのか未だに理解出来ない。
空いていた目の前の席に断りもせずに座った彼は、堪え切れないといった風に腹を抱えて笑い始めた。
人が少ないとは言えそんなにはしゃいでいては迷惑になるのでは…と変な心配をしてしまう。
「ぶっ、あははは!『…うわぁ』て!俺そんなガッカリな反応されたの初めてだよ!くっ、ふふふ」
「だって…はぁー。笑い過ぎじゃないの」
「あぁー、録音したいぐらいだったよさっきの。ってか顔も心底嫌そうで…ぶふっ!」
「笑うだけ笑えばいいけどさ。もう少しだけ静かに出来ない?」
「ごめっ、ふふふ」
「この野郎…」
駄目だ。どんな反応を示しても彼には引かれるどころか興味を更に強くする材料にしかならないらしい。
寧ろ周りの反応と違うことが新鮮、みたいな感じだろうか。少女漫画で言う「おもしれー女」、みたいな状況になってしまっていないか。
ならば彼が現れた瞬間に僕はぱあっと顔を輝かせてみせればいいのだろうか。
や、無理。
読書を邪魔されてそんな表情出来ないしそもそも僕の表情筋にそんな力があるかも定かではない。
というかそれはそれで喜ばれそうなので、結局のところ僕はいつも通りの塩対応で返すしかないのだ。
「読書の邪魔しちゃってゴメンね?」
「分かってるんなら何で毎回話し掛けてくんの」
「話したいからに決まってんじゃん?」
「なら友達と話せばいいじゃん。あんなに沢山いるんだから」
「分かってないなぁ。俺は、きみと。話したいんだよ」
「だから、」
だからその理由が知りたいのに。
ちらりと本から視線を上げると、また何とも嬉しそうなアメジストと目が合った。
飼い主に懐く犬みたいだな。きらきらと、ボールを投げてくれるのを待っているみたいに何かの期待に満ちた眼差し。
僕が今まで、向けられたことのない眼差し。
鬱陶しい。…擽ったい。
そりゃあ僕のようなタイプは彼からしたら珍しいのかもしれない。
嗚呼、だからかな。新しい玩具を見つけたみたいに、暫く僕の反応を楽しんで飽きたらまた離れていくのだろうか。
自分でもどうしようもないくらいネガティブだなぁと思うけれど、そんな考えが過ぎってしまう。
僕が黙り込んでいると、彼が宥めるような穏やかさで言った。
「きみが話したくないなら、今はそれでいい。ホントはよくないけど、待つよ。だけど近くに居ることだけは赦して?」
「なんで…」
そんな風に言われてしまったら嫌だなんて言えないじゃないか。
本当は真摯な人なんじゃないかなんて、思ってしまうじゃないか。
お願いだからこれ以上入ってこないで。僕に、信じさせないで。信じない方がずっとずっと楽なんだ。だからこれ以上は…。
「本、読んでていいよ。本を読んでる真剣な顔見るのも結構好きだから」
「すっ!?…意味分かんない」
「ふふっ」
頬杖をついて僕を見る彼はやっぱりとても楽しそうで、僕がちらっと視線を投げると無邪気に目を細めてまたふっと微笑んだ。
何故、そんなに嬉しそうなのかが分からない。
僕は何も面白いことなんて言えないし、何なら追い払うような辛辣な態度を取ってきたのに。
その純朴な笑顔を見て、胸の奥にチクリと棘が刺さった。
思っちゃいけないのに。
誰かと居て楽しいとか、笑ってくれて…嬉しいとか。
どうせいつか離れてゆくのだから。何も期待なんてしちゃいけないのに。
だけどこの時の僕はまだ知る由も無い。
初めはただ鬱陶しいとしか感じなかったその気配が、声が、存在が、既に少しずつ僕の世界を塗り替え始めていたことを。
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