「…紺。居るんだろ」
「入ってこないでっ!」
「………」
大きく見開かれたプルシャンブルーの瞳は、溢れ出る涙で滲んでいた。
扉の外に居るであろう幼馴染みはまた勝手に合鍵を使って、僕の部屋の前まで断りもなくやってきたらしい。
けれど今は太陽の光も見たくない。
このまま暗い影の中に閉じ籠っていたい。
だって僕にはそれが、お似合いだろうから。
「もう僕に構わないで…」
お願いだから…もう誰も。
僕なんかに、構わないで。
見ないで、触れないで、暴かないで。
こんなにも弱くて愚かで、どうしようもなく醜い僕なんかに。
あぁ。もっと早く離れるべきだったんだ、緋色とも。そうしたらこんな余計な面倒事とは無縁に彼もただ楽しい学校生活を送れたことだろう。
こんなにも弱くて情けない幼馴染みなんかに構わないでもっと自由に過ごせたのだろう。
そうだよ、みんなが言う通り僕は。
「ぼくは…おかしいんだよ」
零れ落ちた言の葉は果たして僕の本心か、それとも幼い時から刷り込まれてきた呪いだろうか。
幼い頃は空のように鮮やかな水色だったこの瞳も、大きくなるにつれてその色を濃くし、今では深い夜空のような紺色を携えていた。大きくなれば、皆と同じような黒になると思っていたのに。
言っておくが僕はハーフでもクォーターでもない。特別顔が良い訳でもなければ、何かに秀でている訳でもない。勉強だって、人並み以上の努力を重ねて重ねてやっと緋色の背中が見えるくらいだ。
…そんな事、比べたってしょうがないことは分かっているけれど。
名は体を表すなんて諺がどれ程憎かっただろう。僕は普通になりたかった。
ただ、それだけなのに。
「おかしいって何。何でそんな風に言うの」
「…だから勝手に部屋に入ってくるのやめてよ」
あの声量を聞き取ったのかとか、いつの間に入ってきたんだとか。
そういう疑問は彼の前では最早無意味だろう。
ベッドの中に閉じ篭る僕に、段々と彼が近づいてくる気配がした。
「おかしいって。何でそう思うの」
「だって散々そう言われてきた。他にも同じ奴なんか見たことない」
「おかしいんじゃなくてちょっと珍しいだけだろ。何で他人の方が正しくて自分が間違ってることが前提で考えるの」
「…緋色だって知ってるだろ。この瞳のせいで、子どもの頃からどれだけ馬鹿にされてきたか」
「もう誰も馬鹿になんてしないよ」
「分かんないだろ。緋色みたいに綺麗な顔なら似合ってたかもしれない。だけど僕は…僕は…!」
思わず布団から顔を出す。今僕はきっと、とても鏡じゃ見ていられない顔をしているんだろう。
僕は…。
『みんなとおなじがよかった』と。心の中で成長しきれなかった幼いままの僕が、情けなくも泣き喚いている。
分かってる。こんなの醜い僻みでしかない。だけどずっと胸の奥で出てこられないように隠していた醜い僕が、醜い本音が溢れ出して止まらない。
「…綺麗だよ」
「僕はそう思えないんだよ。だってこんなの、」
駄目だ。駄目だ駄目だだめだ。
出てこないで…止められない。
陰気な見た目だけじゃない。分かっている。本当は変えようと思えば見た目なんていくらでも変えられた。
そうさ分かってる。例え見た目を変えたところで中身までは、見た目のようにすんなり変えられないことも。
だから僕は、僕なんだ。
こんな風に僻んでしまう僕も、劣等感に押し潰されそうな僕も、何の罪もない緋色にこうして八つ当たりしている僕も。
僕はそんな僕自身がとても…嫌いだ。だって僕はこんなにも。
「だって僕は…!みにく、」
醜い。そう言いかけると、
「きれいだよっ!!」
聞いたことの無い程大きな声が遮った。
場の空気が一瞬にして変わり、ピリッとした空気が肌に伝わる。
緋色が、叫んだ。あの温厚な緋色が、イライラすることはあってもそう顔に出さない緋色が。
僕の言葉を遮って、そう叫んだ。
俯いた緋色の目は見えず、その表情は伺い知れない。だけど僅かに見える口元はぎゅっと固く結ばれていた。
…震えている。
「…ひ、いろ?」
名を呼ぶと、ゆっくりと顔を上げた。
「ひいろ?何で、何で…そんな顔するの?」
まるで自分が傷付いているみたいに。
僕が傷付けようとしたのは僕なのに。
「何で、緋色がそんなに泣きそうな顔するの…?」
何で、何で、何で…?
「…なんでって?」
緋色がやっと口を開いた。
「ゆるさない。ゆるさないよ。いくら紺でも、おれのたからもの悪く言うのはゆるさない」
「た、からもの…?」
震える唇から発せられた言葉の意味を噛み砕くまでに、鈍い僕は暫く固まってしまった。
たからもの…宝物。そんな風に、思ってくれていたの。
嗚呼だけど、僕だって緋色のことを大事に思ってる。そう考えれば、「宝物」という言葉がすとんと空いていた胸の隙間に収まったような気がした。
「…大声出してごめんなさい。ごめん、ごめんなさい…」
「ひいろ。緋色ごめんね。僕の方こそ、傷付けちゃってごめんね…」
何だ瞳の色くらいでって、思われるかも知れない。他人にとっては取るに足らないことかも知れない。
だけど、僕はずっと嫌だったんだ。
変だ変だと言われ続けて、僕がおかしいのだと思ったんだ。何で周りと同じじゃないの、何で僕だけこんな色なのって、どうしようもないもやもやが溜まり続けて、凝り固まって、刃になった。
そして行く先の無いその矛先は、僕自身に向かった。
周りが僕を馬鹿にするのをやめても僕は僕を傷付けるのを止められなくて、周りの目が怖くて、その内段々人の目を見ることすら出来なくなった。そうして必要以上に前髪を伸ばして、目が悪い訳でもないのに眼鏡をかけた。たったのガラス一枚でも、少しでも守られている気がした。
緋色は何も言わず、ただそんな僕の側にいた。
だけど本当は分かっていた。緋色は、彼だけはいつだって僕の目を真っ直ぐに見てくれていたこと。
その眼差しが僕がたくさん向けられてきた好奇や蔑みの色なんかとは無縁で、ただただ優しくて暖かな色であったこと。
まるで、太陽。
そう、彼の色だ。
…それなのに、傷付けてしまった。
本当は彼が何よりも僕を大切にしてくれていたことなんて分かっていたのに、そんな彼を、僕の情けない弱さで傷付けてしまったんだ。
まだ少しだけ震える肩をそっと抱き寄せると、彼は抵抗することなく僕に凭れかかる。そうして僕に全身を預けた彼はゆっくりだがひとつひとつ、慎重に言葉を紡いだ。
そのひとつひとつの大切な音を聞き逃さないように、僕も耳を澄ませて彼に向き合う。
「おれは、紺じゃないから。『分かる』なんて言えない。ずっと見てきたけど、いくらお前の近くに居てお前が体験してきたことを知っててもお前の感じたことまではおれは感じられない」
「うん」
当然だ。だって僕らは別固体だもの。いくら共感したくたって、相手の感じることや思うことを全て分け合うなんて出来ない。
だからこそ僕らは、伝えようともがく。思いを受け取ろうとこうして悩んで足掻いて、言葉を紡ぐんだ。
今こうして分け合う体温も、きっとその言の葉のひとつだと抱き締めながら思う。
…離したくない。離してはいけないと。
「…だから言ってよ。今みたいにもっと、痛いとか苦しいとか意味分かんねぇとか、全部おれにぶつけて、叫んで、思いっ切り甘えてよ。実際にぶん殴ってくれたっていい。だけど、」
自分を傷付けることだけは赦さないから、と。それだけは絶対にしてはいけないと。
珍しくたくさん喋る緋色が口にしたのは、この世で恐らく最も温かい叱責だった。
「おれの前でも…泣いて欲しい」
ひとりでいないで。
見せないようにしないで。
「ひ、いろ…」
「分かってる。これはおれのわがままだ…」
消え入るような声で僕の両腕を掴み懇願する彼は、本当は全て知っていた。
僕が本当に泣きたい時は自室に引きこもって声を殺すこと、今でも夜中何度も起きてしまうことやその度にバクバクと五月蝿い心臓、背中を伝う冷や汗やたまに荒くなる呼吸が不愉快なこと。
寝不足を誤魔化すために、そんな夜の後は緋色ともなるべく目を合わせないようにしてたこと。
「ごめんね、ひいろ」
「…ん」
…だけど絶対に、心から綺麗だと思わせてみせるから。
頼りない腕に抱き締められながら、緋色がそう誓ったことは紺は知る由もない。その為に、おれはここにいるんだと。
「でもおあいこだよ、緋色」
「…?」
優しい力で彼が抱き締め返すと、僕は言った。
「緋色も、もう自分の名前嫌いだなんて言わないで」
「…それは、約束できない」
「なんでだよ。人には駄目って言う癖に」
何て自分勝手な。僕だって自分の好きなものを嫌いだなんて言われるとやっぱり悲しいのに。
だけど悪びれもせずに彼は言った。
「ごめんね。でも、紺以外に呼ばれる俺の名前なんて、やっぱり嫌いだから」
そう言って真っ直ぐに僕の青を見つめる瞳は、太陽みたいにキラキラと輝いていた。
あぁ好きだな。この輝きが、僕はとても。
そこでふと思い出す。
「…あ!そうだ、そうだよ緋色っ!」
「なに」
「あ、えと…昨日のその、アレって、夢…じゃない?」
「アレ?」
「だからその、キ、」
「キ?」
「えと、いや…やっぱり何でも…」
「コレのこと?」
「んっ」
くいと寄せられた後頭部の手の温度と、唇が受け取った優しい感触にやはり昨夜のアレは夢じゃなかったのだと思い知らされた。
思い出す熱と感触。また一気に顔に熱が集まるのを感じて、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ…。
「コレで合ってた?」
「合って、た…」
「そう」
「ちが、そうじゃなくてっ!何でこんなこと、」
「んー…。すきんしっぷ?」
「はあぁっ!?お前は誰とでもこんなことするのか!?」
「しないよ。紺とだけ」
「え、それってどういう」
「自分で考えて。じゃあ、おやすみ。紺」
「あ、ちょっ!………なんて勝手な」
だけど彼が出て行った部屋にはまだ暖かな日差しが降り注いでいるようで、さっきまでの暗闇がまるで嘘のようだ。
それがどうにも心地好くて気恥ずかしくて、愛おしくて。
頬を伝っていった雫すら、温かいと感じた。
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