「おい止めろ北村っ!そこまでだ!」
教室に入った瞬間、桃谷がまさに恐れていた光景が広がっていた。
片手で一人の男の胸倉を掴み、無の表情で持ち上げる北村。そしてそんな北村の腕を必死に剥がそうとしながらも、首が絞まっているのか苦しそうに顔を顰めている髪の長い男。
持ち上げられている男の足はぶらりとしていて、教室の床から浮いていた。上履きが片方だけ、床に落ちる。
「手を離せ北村っ!!」
桃谷は教室に入るや否や制止の声を上げて、二人の元へ近づいた。すると彼の存在に気付いた北村は無表情のまま視線だけを向けると、パッと掴んでいた手を離した。
雑に落とされた長髪の男はどさりと鈍い音を立てて床に倒れ込み、「げほっ、ごほ、は、はぁ」と未だ苦しそうにむせ込んでいる。
さっきすれ違った彼と、今教室で繰り広げられていた状況…。何があったのかは安易に想像出来た。
だってこの北村がこんな事をするのは必ず茅ヶ崎絡みのことだ。自分の時でもそうだったが、彼の事となるとこの北村という男は普段とは全くの別人になる。
思い切り腹を蹴り上げられた時を思い出して、桃谷はゾッとした。そうだ、こいつは加減しない。
恐らく加減というものを知らない訳ではないのだろうが、このスイッチが入った北村は理性が飛んでいるのかわざとなのか、攻撃対象とみなした者に一切の容赦が無いのだ。
自分がもしこの教室に来ていなかったら、一体どうなっていただろうか…。まさか殺しはしないだろうが、それでも…。
ちらりと見えた北村の視線があの時よりもずっと殺気立っているのを感じて、また背筋が凍り付くような感覚に襲われる。
しかしそれでも奮い立って桃谷は北村に向かって言った。
「何があったのかは聞かない。だが、加減というものがあるだろう」
「あるね」
さらりと言ってのけた北村はまだ床で呼吸を整えている男に視線を戻し、そして素手で汚物にでも触れてしまったかのような目で自身の右手を見ていた。
「分かっているならっ!」
「こいつに言えよ」
こいつ、とは今ようやっと顔を上げたこの男のことだろうか。どこかで見た事があるような…無いような。桃谷は考えるが、ネクタイの色から一年先輩であるということだけは分かった。
「は、げほっ、…はぁ。酷いなぁ。俺ここまでされるようなコトあの子にしてないんだけど?」
「…『そんなつもりで言ったんじゃない』、『悪気は無かった』」
「…北村?」
「今までだって何度も悪気は無いと言い張る奴らがあいつを傷付けてきた。自覚が無いのが一番質が悪い」
相変わらずこの変わり様には驚かされる。
教室の隅にあるアルコール除菌液をこれでもかと手に吹き付けて擦りながら先輩らしき男を見下ろす北村という男。その瞳からは一切の光が消え、表情筋も全く仕事をしていない。そこにはいつも人に囲まれている人気者の「北村緋色」の面影など微塵も無かった。
まぁ初対面からこの姿を目の当たりにしている桃谷からすればこちらの方が素なのだろうと、何となく腑に落ちていたのだが。
「げほごほ」と呼吸を整える声がして、桃谷も床の男に視線を落とした。
すると床にへたり込んでいた男は徐に乱れた髪を結い直し、胡坐をかいて頬杖を付いては何事も無かったかのように話し始めたではないか。
あんな事をされた後でこいつ、平然と…。
こいつもきっと「普通」の類ではないのだと、桃谷の野生の勘が告げる。
「北村クンさぁ、流石にここまでされたら退学とまではいかなくても停学処分もんじゃん?先生に言いつけちゃうよ?桃谷クンはよく我慢したよねー」
「俺の名前を知っているのか。というか、茅ヶ崎に何をした」
「何にも?でも、珍しいよねーアレ。何で隠しちゃうのかなぁ?…おもしろいのに」
「おま、見たのかっ!?」
彼の瞳の色を。
動揺する桃谷はどうしていいか分からず、隣に居るであろう北村に目を向けるがそこにはもう誰も居なかった。どうやらいつの間にか教室を出て行ってしまったらしい。
「あんなに嫌がることかなぁ」
「俺も…お前と似た様なことをあいつにしてしまった。その事を今でも悔いている。俺には何も言う権利が無いのは分かっている。分かってはいるが…」
「何かな?後輩くん?まぁ大体予想つくけど」
「今度同じようなことしてみろ。俺も許さないからな」
「どの口が言うー…。けど俺だって、ホントに傷付けたかったワケじゃあ無いのにな」
ポツリと零した言葉は、既に遠く走り去ってしまった彼に届く筈も無かった。
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