「先輩、いい加減緋色に何したのか教えてください」
「だめ。何で俺が何かしたってことになってるの?決め付けは良くないよ」
「すいません、でも…!」
「ふっふふ、必死なのも可愛いけどなぁんか、面白くないなぁ…」
このままじゃ埒が明かない。
本当に何がしたいんだこの人は…!
「話してくれないならもう、うわっ!」
「帰ります」という言葉を発する前に、突然先輩が僕の両手首を思い切り掴んだ。
吃驚している間にも先輩はそのまま僕の腕を上げさせ、片手で僕の両手首を一纏めに拘束してしまった。
すらりと細長い指の何処にそんな力があるのだろう。ギリギリと痛い程に掴まれた手は、僕が一生懸命振り解こうとしても中々外れてくれる気配は無かった。
「君のナイトはまだかなぁ。このままじゃどうなっちゃうんだろうね」
「離して…くださいっ!」
「そんな怖い声出さないで。ちょっとよくちーちゃんの顔を見たいだけなんだ。…やっぱり髪が邪魔だなぁ」
「や、めてくださいっ!」
思わずぎゅううと目を瞑る。するとまるで予期していたかのように、頭上から楽しそうな笑い声が振ってきた。
「俺の推理だとね、ちーちゃんに秘密があって北村クンがそれを守ってるんだと思うんだ。こないだの写真もそう。きっと誰かがちーちゃんの秘密を知っちゃったんだろうね。例えばそうだなぁ…」
「まさかあの写真、先輩がっ?!」
「えー違う違う。まぁた濡れ衣。俺はそんな事しないってば」
またって、どういうことだ…?
話が全く見えない。
薄目を開けて先輩を盗み見た。
どこかの刑事ドラマみたいにうーんと指を顎に当てて考え込む仕草をする先輩。先輩が少し動く度にさらりとした髪の束が揺れる。
身動きの取れない僕はどきどきしながらその様子を見守るしか出来なかった。
「ちーちゃんの秘密…。そう例えば、絶対に見せてくれないその目、とかね」
「なっ…!」
ぞくりと背中が粟立った。
嫌な汗がつうっと伝って少しずつ制服を濡らす。
駄目、だ…。
後ろは壁で、これ以上後退り出来ない。
振り解こうにも、情けないことに先輩の方が力が強いみたいだ。
やっぱり桃谷くんに空手習っておくんだった。そんなにすぐ強くなれる訳ではないだろうけど…。
「おー、我ながらすごい。正解?ちーちゃん分かり易いってよく言われない?」
「い、われません…」
「ふーん?ちょっと目開けてみてよ」
「絶対…や、です…っ!」
「それはもう正解って言ってるようなもんだよね。大丈夫、怖くないよ?ちょっと見せて欲しいだけ」
「緋色とのこと教えてくれるって言った!」
「まーた幼馴染みくんのことばっかり。本当に、面白くないなぁ」
自由な方の手で先輩が僕の前髪を上げ、額に触れた。それが僕の良く知っている感覚とは全く違っていて、気持ち悪いのに身動きが取れないのがどうしようもなくもどかしい。次いで眼鏡に手が掛けられると、僕は敬語も忘れて反抗した。
「や、めろ!触るなっ…止めて、くださ、」
「目、開けてよ?どうしてもだめ?」
「離せ、離せってば…っ!」
すると突然しんと、痛い程の静寂が僕らを包み込んだ。一体どうしたというのだろう。さっきまであれだけ楽しそうに僕を追い詰めていた筈の立花先輩の動きが止まり、声も聞こえなくなった。手の拘束は、外れなかったけれど。
「え…北村くん…どうしたのその怪我っ?!」
「っ?!緋色っ?!」
驚いたような先輩の声につられて思わずパッと目を見開いて彼の姿を探す。けれどどこにも緋色の姿は無くて、目の前には代わりに悪戯に成功したようなあどけない先輩の笑顔が至近距離にあった。
僕が目を開けると同時に、眼鏡も外され奪われてしまう。
あぁしまった。やられてしまった。
今更目を閉じてももう遅い。
もう、見られてしまった。
見られてしまったんだ。
先輩の顔は、悪戯に成功したような笑顔から段々と驚きと好奇の表情に変わる。
何度も見てきたその様を、僕は嫌と言う程知っている。知っているんだ。
「へぇー!ほぉー。何かあるとは思ってたけど、コレは…マジかぁ」
「見な、で…くださいっ」
足が震える。歯が、勝手にカチカチと音を立てる。怖い。逃げたい。…情けない。
「えぇいーじゃん?もっと近くで見せてよ?ふうん。珍しーい。………変なの」
「っ!」
ひゅっと喉が鳴る。唇がわなわなと勝手に震えて、僕の意思とは無関係に身体に熱が集まった。
「…るな」
「ん?ちーちゃん?」
「これ以上…僕を見るなっ!!」
僕のどこにこんな力があったのかなんて知らない。だけど先輩のその一言を聞いてから身体にビリッと何か嫌なものが駆け巡って、一刻も早くこの場から離れなければと強く思った。
僕が突き飛ばしたのだろうか。いや、咄嗟に蹴り飛ばしてしまったのかも知れない。背後でガシャンッと机やら椅子やらが倒れるような音と、「痛っ!!」という先輩の悲痛な声が聞こえた。
いつもの僕ならどうしただろう。駆け寄って謝って助け起こして、先生でも呼んだだろうか。知らない。そんなこと、今は知らない。
『変なの』
言われ慣れた言葉がぐるぐると頭を支配して、過去の思い出したくも無い記憶まで一緒くたになって僕を追ってくる。
小さな黒い手がたくさんたくさん追って来て、僕はそれを振り払うので必死だった。
飲まれる。飲まれてしまう。
僕はもう、あの中には戻りたくないんだ。
ドンッと曲がり角で誰かにぶつかった気がしたけれど、それでも構わず、いや、気付かない振りをして僕は学校を出て家路を急いだ。
「あーあぁ。出てっちゃった、残念。もっとよーく見ていたかったのになぁ」
茅ヶ崎が勢い良く突き放した反動で床に尻餅をついた立花はぼうっと彼が出て行った教室の出入り口を眺めていた。するとゆらりと長い影が揺れ、あの時の衝撃でひび割れてしまったらしい眼鏡をゆっくりと拾い上げた。
「覗き見かぁ。いーけないんだ。というか、思ったより早かったなぁ…。いつから居た?」
教室に入ってきた影は茅ヶ崎よりずっと背が高い、しかし立花にとっては予想通りの人物だった。
「…茅ヶ崎?」
ぶつかって来た、と言っても軽く肩が当たる程度だったが、すれ違ったその生徒は桃谷には見慣れた人物であった。いつもの彼ならばここで申し訳なさそうに立ち止まり、必要以上に謝ってくるに違いない。
しかし今日はどこか変だ。一瞬すぎて表情は見えなかったが、彼はぶつかったことにすら気付いていない程とても焦っているようだった。まるで何かに追われているような、必死に逃げているような…。
彼の後を追うべきか?
いやしかし、俺が追ってどうする…?
いやちょっと待て。
あの焦り様はもしかしたら…。
様子のおかしい想い人を心配そうな目で追う桃谷は暫しの逡巡の内、一つの可能性に辿り着いた。
「まさか…!」
嫌な予感が当たらないことを祈りつつ、桃谷は茅ヶ崎が走り去っていった方向とは逆方向に急いで向かっていった。
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