「あの…先輩?立花先輩?」
「んー?」
「その、ちか、近いんですけど…」
「そりゃあ、近づいてるからねー」
先輩に連れてこられたのは、理科の実験とかたまにしか活動していない文化部とか、そういったことでしか使われることのない校舎にある空き教室だった。
その教室の端、ギリギリ校庭が見える窓の近くで僕は机の合間を縫って先輩から出来る限り距離を取ろうとしていた。
それを楽しむような笑みを隠しもせずに、先輩は一歩一歩後退りする僕に近付いてくる。
僕らが動く度に古びた床から埃が立って、窓から差し込む柔い光にきらきらと反射した。その小さなきらめきの中で優雅に微笑む先輩は絵画の中の人物のようで、だけどその笑顔が今はとても不穏に思えて…。
先輩に対して、変な人だなぁと思うことはあれどそこまで嫌悪感を抱いたことは無かった。だけど今日は、何か違う。
やっぱり自分の直感に従って断っておくべきだったろうか。だけど緋色が関係してるとなると僕も簡単に引き下がる訳にはいかない。
分かっていてここまで付いて来たんだから、しっかり目的を果たさなくては。
「…先輩、緋色に何を言ったんですか」
「ん?別に、他愛の無い話をしてただけだよ」
嘘だ。それが本当ならあの時の表情を失くした緋色は何だったんだ。
決め付けるのは良くないかも知れないが、あの後の緋色の行動を思い出してみても少なからず先輩に原因があることは明らかだ。
「はぐらかさないでください。教えてくれるって約束でしょう」
「…ちーちゃんってもっとやわやわした感じかと思ってたけど、今ちょっと驚いてるよ。幼馴染みくんのことになると、君も変わるんだね」
「………は?えと、何言ってるのかよく分からないんですが」
「ふふっ」と肩を竦めて微笑う先輩の考えはやっぱり読めない。「も」って何だ。まるで緋色にも同じことがあったみたいに言うんだな。
「さてさて、俺の本題はここから」
「え、緋色との関係は?!教えてくれるんじゃ、」
「それはまぁ、ご想像にお任せってやつ?教えるかどうかはちーちゃん次第かな」
「僕、次第…?」
「顔上げて?心配しなくても危害を加えたりしないよ」
「別に…怖がってなんか」
「だーいじょうぶっ!だって俺、紳士だからさ」
教室の中はもちろん、校庭にも、中庭にも下駄箱にも、何処を探しても彼の姿は無かった。
もしかして避けられているのだろうか。まぁ自分だって少し気まずくて朝は先に登校してしまったけれど…。
当然か。嫌われても気持ち悪いと思われてもしょうがないことを、俺は彼にしてしまったのだから…。
守りたいと思うのに、上手くいかない。
そもそもあいつを一番傷付ける可能性があるのは、やっぱり俺なのかも知れない。
だけど、それでも…。
「きーたむーらくんっ!」
このまま帰宅しようか悩んでいると、後ろにドンッと軽い衝撃を受けた。甲高い声に驚きもせず振り返ると、瞳をきらきらと輝かせた女の子達が数人並んで立っている。
「…何?どうしたの?」
「んーとね、今日放課後フリーなんでしょ?折角だから一緒帰ろうよ」
それは、俺がいつもならとっくに紺を連れて帰宅しているこの時間に独りでいるからそう思われたのだろうか。
女子は目敏いというか、何と言うか…。
「あー、と…」
彼はどうしただろう。
もう家に帰ったのだろうか。なら俺も早く…。
いや、念の為に確認しておこう。
「ちょっと待ってね」と俺がスマホを見ていると、誘ってきた女の子が痺れを切らしたように口を開いた。いつもは雑音でしかないその音が、形を成してピリリと嫌な予感になり背筋を貫く。
「えーっ!今日は北村くん空いてるって言ってたのにぃ」
「…それは、誰に聞いたの?」
彼はまだこの学校に居ることが、四角い画面を見るまでもなく分かった。
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